信仰と「哲学」42
関係性の哲学~死への「不安」が本来性への契機

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 ハイデガーは、「現存在」としての人間が、非本来的な生き方をしていることを非難しているわけではありません。それが普通の生き方であり、日常であるというのです。

 人間は「ヒト」として、世間(道具連関や公共性など)に流されながら生きています。「空談(くうだん)」「好奇心」「曖昧さ」に囲まれながら生きているのです。

 このような「現存在」の日常的な生き方を「頽落(たいらく)」と呼びました。決断に伴う自己の責任という主体的な動機、契機を欠いたごく表面的な生き方です。

 人間は「世界内存在」として、世界に投げ込まれた受動的な状態(「被投性」)を転換しなければならない。それは、主体的に本来性を持って生きる、自己の「実存」(=可能性のこと)を選び取り、それに即して自己を理解していくような「投企(とうき)」的な生き方だというのです。

 そのための契機となるのが「不安」だとハイデガーは指摘します。「不安」を消極的には捉えないのです。本来的生き方をするためのキーワードと位置付けるのです。

 「現存在」の「頽落」は「不安」が原因となっている。このような自分を直視しようとすると「不安」になるので、何かに同調して思考停止的な状態に陥ろうとする、それが「頽落」だというのです。

 それでは、「何」に対する「不安」なのでしょうか。ハイデガーは、特定の対象に対して抱かれるのは「恐れ」であって「不安」ではない、それより根源的なものが「不安」だというのです。それは、「死」について、「死」を前にしての不安だといいます。

 ハイデガーの言葉です。前述の内容を述べています。
 「死」の前にあっての「不安」を前提に読んでみてください。

 「不安の<なにをまえに>あって、『それは無であり、どこにもない』ことがあらわとなる。世界内部的に無であって、どこにもないことが手に負えないしだいが現象的に意味しているのは、不安の<なにをまえに>は世界そのものである、ということに他ならない。無であり、どこにもないことのうちで告げられている完全な無意義性は、世界の不在を指しているものではない。意味されているのは、世界内部的な存在者がそのもの自身にそくして完全に重要性を欠いており、世界内部的なもののこうした無意義性にもとづいて世界がその世界性においてひたすらなおも迫ってくる、ということなのである」(熊野純彦訳『存在と時間(二)』岩波文庫、2013年 365ページ)

 私たちの生きる日常的世界は道具連関(手段―目的)の世界です。
 豊かであることや充実していることを意味しているのは、ほとんどが道具連関の豊かさや充実さです。その意義が完全に失われるのが「死」なのです。死への不安が非本来性からの転換の契機となるのです。

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