夫婦愛を育む 95
正しい良心と病める良心

ナビゲーター:橘 幸世

 期末テストが終わり、生徒がニコニコして「先生、オレ英語、~点だった。踏ん張りました」と言ってきました。
 あと2点足りないと“欠点”で追試となるので、「ギリギリセーフ!」という意味でしょう。期末テストはそこそこに、センター試験で頑張ればいいと思っている私は、そうかそうか、というスタンスです。

 私が教えている塾の生徒たちは、成績に関しても互いに随分オープンで、模試の結果も(良くも悪くも)見せ合ったりしています。リスニングの練習問題で良い点を取った生徒に周りから自然に拍手が出るなど、良い子たちです。

 とはいえ、全てが平和という訳ではなく、真ん中の列に並ぶ生徒二人は、ここ2カ月ほど互いの間に壁があって口をきいていません。周りの皆も分かっていて、仲裁するでもどちらかの味方に付くでもなく、話を聞いてあげたりして、それぞれを上手にフォローしているようです。

 センター試験を目前に、一部は朝「おなかが痛い」「気持ちが悪い」などの症状を訴えながらも、頑張っている子供たち。点数を言っても馬鹿にされない、上がったら喜んでもらえる、そんな“安心して” “素を出して”勉強できる空間になっていたら、関わる一人としてうれしいです。

 先日訓読をしていたら、ある言葉が私の関心を捉えました。

 「よい人のほまれとは、正しい良心の与える証しである。正しい良心をもちなさい。そうすれば、あなたはいつも喜びをもつことができよう。…(中略)…病める良心はいつでもおずおずとして不安である」
トマス・ア・ケンピス キリストにならいて(『世界経典』171頁)

 この「正しい良心」と「病める良心」(別の邦訳本では“悪い良心”とあります)についてさらに詳しい記述を探しましたが、見つかりませんでした。ですので、ここからは凡人の私見になります。

 神様によって善なる存在として創造された私たちは、罪の方向に向かうと「良心作用」によってブレーキがかかります。が、寂しさや孤独の中にあるとブレーキの効きは鈍くなりがちです。罪を犯すと「良心の呵責」に苦しみ、許され解放されたいと願い、神様の方に向かいます。けれど中には、許されたと感じられず、罪悪感に苦しみ続ける場合もあります。

 良心は私たちを罪から守ろうとしますが、その主体である神様をはっきり知ってつながらないと、病んでしまうのかもしれません。神様の原理原則だけでなく、愛と許しを知ってその中で生きないと、常に不安が付きまとうかもしれません。
 不足な点もひっくるめて受け止めてくださる神様の大きな懐の中でこそ、良心は安心して、元気に私たちを導いてくれるのかなと思います。

 そんな事を考えていると、はて、私の良心は“元気に” “正しく”作用しているかな、と自らを振り返ることとなりました。