コラム・週刊Blessed Life 92
「人間の力」よりも「神の力」によって

新海 一朗(コラムニスト)

 「人間の力」よりも「神の力」によって平和はもたらされるといった場合、それは、人間のつくり上げた現実的な力、すなわち、経済力、政治力、軍事力などの、そのような力によって真の平和がもたらされるものではないということであり、「神の力」によってこそ、平和は可能になるということです。

 その神の力を、神を認識する信仰的な人々の力が結集して発揮される霊的な力と解釈するならば、経済力でもなく、政治力でもなく、ましてや軍事力でもない信仰的な力、あるいは神霊的な力であると考えることができます。

 モーセの後継者ヨシュアが、エリコ城を陥落させる時、イスラエルの民は1日1回エリコ城を回り、それが6日間続いた後、7日目にはエリコ城の周りを7回周って民が時の声を上げ、角笛を吹き鳴らすと、城壁が崩れ落ちたという話が旧約聖書にあります。
 このエリコ城を陥落させるヨシュアの戦いは、神を信じる信仰的な力、神霊的な力を掲げてなされた戦いであり、神の不可思議な力が働いた戦いでありました。

 こうして見ると、「神の力」を引き出すのは神を信じる人間たちを基盤にしていることが分かります。神を絶対的に信じる人間集団が神には必要であり、そのような人間集団がなければ、「神の力」も現れることはないという結論に至ります。

 神の存在を確信する「神の認識」は、どのようにして得られるのでしょうか。神学者のジャン・ピエール・トレルは、「神学の三要素は、信仰、啓示、理性である」とし、これらの三つはそれぞれ重要であり、宗教的真理を知る上でいずれも欠かせないものであるが、役割が違うと述べています。

 宗教改革者のジャン・カルヴァンは、「神の認識は理性ではなく信仰による」と言い、また、他の神学者は、「神学を証しすることができるのは、信仰を持った理性だけである」と言っているように、究極的な神学的真理の認識は、「信仰を持った理性」によって可能であるというのです。

 そうすると、神学は信仰によって獲得した真理を理性の力で確かめて体系化することであり、理性によって信仰に行き着くように導くのが神学であると考えることはできないということです。
 あくまでも、「神の力」「神の認識」を見いだす方法は、第一に、「信仰」、あるいは理性を持ち出すときも「信仰を持った理性」というように、信仰を先立てることが重要であると見なければなりません。

 例えば、朝鮮半島の統一といったテーマを考える場合、南北の経済力や政治力、軍事力などの分析から統一の可能性をいくら議論しても、それは「人間の力」を中心として統一を考えていることであり、「神の力」によるものではないということです。

 すると、「神の力」は何かと考えざるを得ませんが、信仰の力の結集と見た場合、韓国のキリスト教、その他の宗教、アメリカのキリスト教、日本の神道、仏教界、こういった宗教勢力の総結集による「祈りの力」「神霊の力」が効力を発し、神の力が現れると考えるべきでしょう。

 日韓米の教派を超えた宗教勢力の総結集が南北統一を可能ならしめる「不可思議な力」を顕現せしめるとしたら、それは素晴らしいことであると言わざるを得ません。