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創立60周年記念企画 第1弾
日本統一運動史 11
帰国とその後①

 日本家庭連合(旧日本統一教会)創立60周年記念企画、第1弾は『日本統一運動史~文鮮明先生御夫妻と日本の統一教会および統一運動の歩み』をお届けします。
 創立40周の際に発刊されたこの書籍は、日本における文鮮明・韓鶴子総裁夫妻の貴重な歴史的足跡と、多岐にわたる統一運動の歴史をまとめた一冊です。
 今、改めて読んでおきたい、日本の統一運動の歴史を振り返る連載です。

歴史編纂委員会・編著

(光言社・刊『日本統一運動史~文鮮明先生御夫妻と日本の統一教会および統一運動の歩み』より)

第一章 メシヤとしての準備時代における真の御父様と日本
(1941年から1945年8月15日まで)

三、 帰国とその後(1943.10〜)

(1)卒業(1943.9.30)

 真の御父様が早稲田大学附属早稲田高等工学校に入学された年(1941年)の12月8日に、日本は太平洋戦争に突入し、学制上の改革として修業年限の短縮がなされました。この発端になったのは、1941年10月16日に公布された「大学学部等ノ在学年限又ハ修業年限ノ臨時短縮ニ関スル件」です。これによって修業年限は41年以降、当分の間それぞれ6か月以内の短縮となったのです。43年度も同様の措置(文部省令第68号)がとられ、真の御父様は43年9月30日に卒業(電気25回卒業)されました。このとき、早稲田高等工学校の卒業生は、580人(電気科125人、機械科262人、建築科81人、土木科72人、化学科40人)です。(『早稲田稲工会々員名簿』 早稲田稲工会発行 6ページ)

1.  御 言

①「大東亜戦争の時ね。先生卒業の時、9月に卒業したんですよ。兵役問題とかそんなので、6か月短縮してね。」(1965.10.3)

▲卒業証明書

(2)帰国時の日本に対する祈りと決意

1.  御 言

①「先生は、日本の皇居を通り過ぎていく時に、国を失い、民族を失った恨を抱いた孤独な男として、その皇居を見つめながら、今から二十年後には、天が韓民族を中心として勝利の旗を掲げる日が来るということをあらかじめ知って、神様に祈祷しました。『今は、日本が私たちの民族を迫害していますが、今後は反対に私が命令すれば、日本の若者が先生のために、世界のために立ち上がる日が来ます』と、そのように誓ったのです。それが二十年後の一九六五年に成し遂げられました。

 先生は日本を出発しながら考えました。『二十年後には私が間違いなく帰ってくるから、その時再び会おう。今は日帝に恨みを晴らせず、我が民族の恨みを晴らすことができずに行くけれども、今度はこの国の青年男女たちが世界に役立つように私が教育する時が来るであろう。その時再び会おう』。そのように考えました。」(『真の御父母様の生涯路程』①、P.253〜254)

(3)帰国時の金慶継(キムギョンゲ)忠母様の思い出

 10月4日、午後10時5分、御父様が乗る予定であった崑崙(こんろん)丸(定員2050人、7908総トン)は、655人を乗せて下関港を出港しました。ところが、3時間後の5日午前1時15分ごろ、米潜水艦ワーフー号の発射した魚雷により崑崙丸は撃沈され、655人中、583人の死亡者を出す、関釜連絡船史上、最大の悲劇が起こりました。

▲定州の真の御父様の生家(1992. 7. 26撮影)

 そのため母親の金慶継(キムギョンゲ)忠母様は、息子の安否を確かめるために、女婿が働いている定州の裁判所まで走って行ったのです。

1.  御 言

①「関釜連絡船で崑崙丸、崑崙丸というの知ってるでしょう。崑崙丸が九州で戦争でやられてね、それ沈没した。その時ちょうど卒業して3日目ですね。先生はどういう電報打ったかというと、3日の後に国に帰る。これで帰ることになっておった。それがある事情があって切符を返した。しかし故郷ではね、いつに到着すると。それは計算すれば、もうすでに乗ってるに違いない。乗員名簿をずっと調べると名前がない。それでこれはもう、死んだと言って、もう大騒ぎ。部落全体がひっくり返った。母はね、自分が素足になったのも知らない。韓国では長いチマというそれを着なくては外出できない。それを着るのも忘れてしまった。そして素足でもって二里の街の所まで走って来た。そうして行く時にアカシアのその棘(とげ)が足に刺さったのも忘れた。一週間、痛みも忘れた。そしてそれはね、膿(う)んだね。先生帰ってから…その時初めてこれが痛いということがわかった。そういう親の愛情、心情は忘れられない。今までそれ経験している。」(1965.10.3)

▲崑崙丸

②「その時が十月四日だったと思いますが、その船に乗るはずだったのです。…ところが、駅に行って汽車に乗ろうとするのに、足が動かないのです。その船に乗ったならば逝くのでしょう。それで、天が先生に行かせないようにするのです。それがよく分かる人なのです。心が、あとに戻れというのです。それで、すぐには行くことができないという連絡をせずに、帰ってきて、友達と…私が登山に行ったために、数日が過ぎました。一週間いて帰ってきたのですが、それから電報を打つでしょうか。そのため、故郷では大騷ぎになったのです。

 息子がその船に乗って、何日何時に来るというのに来なかったから、大変なことになったのです。大騒ぎになったのです。母親はどれほど子供を愛するでしょうか。母は気がおかしくなりそうでした。平安北道の定州で、警察署に二日間も、ひたすら出たり入ったりしたのです。婦人がチマもはかずに下着一枚で走っていけば、それはもうすっかり狂ってしまったということではないですか。正気ではなかったのです。ですから、裸足だとかチマを脱いだとか、それを考える余裕がどこにあるでしょうか。先生の故郷の村から定州の中心地までは二里です。母はその二里の道を素足で走ったのです。そして釜山まで行ってきたのですが、履き物であれ服であれ何であれ、考える気持ちがあったでしょうか。私の息子が死んだと裸足で走り出たまま、釜山の水上警察署で調査をしても名簿にはなくて、どうにも確認できないのです。母は間違いなく息子が死んだと、そのように思い詰めた心をもったので、裸足で走る時、その足の裏にアカシアのとげが刺さったことが分からなかったのです。刺さったとげが、うんで張り裂ける時まで分からなかったというのです。それから私が半月後だったか、とにかく十日間くらい過ぎたのちに帰ってきました。帰ってきてそのような話を聞いた時、(母が)どんなに気が気でない思いをしたでしょうか。」(『真の御父母様の生涯路程』①、P.251〜253)

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 次回は、「帰国とその後②」をお届けします。


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