2019.08.04 13:00
創立60周年記念企画 第1弾
日本統一運動史 6
日本留学時代⑤
日本家庭連合(旧日本統一教会)創立60周年記念企画、第1弾は『日本統一運動史~文鮮明先生御夫妻と日本の統一教会および統一運動の歩み』をお届けします。
創立40周の際に発刊されたこの書籍は、日本における文鮮明・韓鶴子総裁夫妻の貴重な歴史的足跡と、多岐にわたる統一運動の歴史をまとめた一冊です。
今、改めて読んでおきたい、日本の統一運動の歴史を振り返る連載です。
歴史編纂委員会・編著
第一章 メシヤとしての準備時代における真の御父様と日本
(1941年から1945年8月15日まで)
二、 日本留学時代(1941.4.1〜1943.10)
(7)労 働
真の御父様は、体験してみなかった仕事はほとんどないと言われるほどに、あらゆる仕事を経験されました。
1. 御 言
①「川崎の造船所へ行って石炭運びなど、よくやりましたよ。『やろう』友達を連れて行くんですよ。いい気になってね。そして労働組合なんかあるんですが、それを一日いくらで受け取りでやるわけです。やる時には、会社の労働者たちと対決してやりました。君たちはこれをいつまでやるか。我々は6時間でこれを仕上げるというわけです。そこで、若者たちを集めて4時間でやろう。死にもの狂いでやるわけです。今日、一日やって死んでもよろしい、これに負けてはいけない。そうしてハッパをかけて始めるんだ。4時間でやると言えば、3時間で完全にやっちまう。そして帰ったら3日ぐらい寝ちゃうんだ。若い時はそれが必要なんだよ。あらゆる社会の良いところ、悪いところ、みんな通過しながらそこで証明書を貰わなければならない。私がもしも大きいことをするんだったら、大衆を動かすようにあらゆる階級の人たちをすぐ指揮できるために、すぐ批判でき、すぐ心情的に、すぐ中心の基準に立てるか、関係を持つか、または友達になりえなければ指導者にはなりえない。そういう経験が必要である。」(1965.10.3)
②「ある時には、活動しやすい身仕度をして、労働服を着てね。川崎の乗船場にノコノコやって行く。夜は2時に出発して、ずーっと横浜まで行ってしまう。労働場に行くんだね。そして飯場のおやじなんかずーっと見ると、ちょっと気持ちが悪い。学生とか労働者とかみんなの中に立ってね、搾取する。会社の方から本当は自分の賃金としてこのくらい出る。しかし自分に配当される賃金はこれだけである。その差の額は彼らが皆奪っているんだね。これじゃいけない。そこで『おい、君!』。そういうことよくやるよ。言って理屈に合わなかったら、それはもう吹き飛ばす。拳の打ち合いはしないよ。技術と口でやる。」(1967.6.19)
③「ある休みの日なんかには、川崎に航空会社があってよく行ったもんだよ。そこへ行ったら硫酸のタンクがある。みんな労働者がそのタンクの中に入って砂のセメントでもって、浄化するために、砂のセメントの上から原料をずーっと下ろしていく。硫化装置だね。そしてそれが何年、何十年とするとみんな使えなくなっちゃう。その中に砂が入って硫酸がしみ込まないんだ。そうするとみんな切り替えなくちゃならない。そうすると、タンクの中に入って15分以上そこで働くことができない。そういうところがあって、先生はそこを訪ねていった。先生は金がないからそんなことやるんじゃないよ。
金が必要だったら、電報打てばその日に来るよ。しかし先生は金があったらみんな友達にやっちゃうんだね。のこのこそういう所を回って、そして様々なことをよくやったんだな。じゃ、なぜそんなことをするか、そりゃやらなきゃならない。『誰よりも私は日本を愛するんだという条件を立たそう』、まあ、そういうことを考えたんだな。」(1965.10.8)
④「先生が昔、皆さんのような年齢の時に、東京にいて、二十七の区域をリヤカーで配達する配達夫の仕事をしました。それをするために、運送会社を訪ねたのです。お金が必要だったからではありません。訓練が必要だったのです。そうして運送会社ならば運送会社の人々を説得しなければなりません。知らなければ、説得できません。」(『真の御父母様の生涯路程』①、P.232〜233)
⑤「川崎造船所には、『バージ』という石炭を積んで通うポンポン船があります。その120トンになるものを3人が引き受けて、明け方1時までに終えなければなりません。他の人々が3日かかる仕事を、1時までに終えたのです。」(『真の御父母様の生涯路程』①、P.234)
⑥「学生服に一日さよならして労働服に着替えて電信柱を引っ張りながら、銀座を通りながらの学生時代のことを、いまだに思うことがある。周囲には、すました顔つきやスマートなスタイルの女が行き来し、匂いをふりかけながら通る姿を見て鑑賞しながら、実に一生涯忘れられない印象を持っているよ。汗を流しながら十字路に来た時、一番問題は十字路になった場合は、『ストップ』その信号が一番怨讐だね。そういう気持ち。青の光が十字路を越えるまでは消えては絶対いけませんという時に、『ストップ』、これは大変だったよ。そういう時には信号の台を一遍に打ち壊したい、そういう思いがする。そこで立って、君そんなこと考えるんじゃないよ。何かいらないことを考えてはいけないんだから、そういう信号が出たんだとして、立つとすると中央に往来する人々を腹を出して汗を流しながら、気持ち悪い格好で先生は眺めておる。そうすると、嫌な顔つきで通って行く。それは面白い人間の展覧会である。それが先生においては非常にその時代は今でも忘れられない。」(1972.5.6)
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次回は、「日本留学時代⑥」をお届けします。