2019.07.14 22:00
氏族伝道の心理学 16
神様の不安と怒り、真(まこと)の父母様の歩み
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大知 勇治・著
第2章 心の問題と復帰歴史
神様の不安と怒り、真(まこと)の父母様の歩み
これからの内容をお伝えするに当たっては、私の中にとてもためらう気持ちがあります。これを読まれる方が、どのように感じ、理解されるのか、それがわからないからです。これまでも、いろいろなところで成約牧会カウンセリングの講義をしてきましたが、話をするのと文字にするのとは、大きな違いがあります。文字にすれば、不特定多数の人の目に触れることになりますし、明確に残るからです。
しかし、それでも文字にする必要があるように思いました。神様の心情と天地人真の父母様の価値をより深く考えていきたいと思ったからです。これからの内容については、反論もあるかもしれませんし、より深い議論が必要でしょう。いずれにせよ、本文に関する責任は、すべて筆者にあることを改めて確認した上で、話を進めていきたいと思います。
先章でも述べましたが、不安と怒りの背景には孤独があります。そして、歴史上、一番孤独であられた方が、神様です。だとすれば、神様に不安と怒りはあったのでしょうか。もしあったとすれば、それは、どのようなものであったのでしょうか。
私たちは、神様は全知全能であり、絶対愛のお方であられる、と思っています。ですから、神様に対するイメージは、「すべてを見通されて、温和で、人類を愛し、導き、見守ってくださっている方」というようなものが一般的ではないでしょうか。私たちは、真のお父様のみ言(ことば)により、恨の心情をもたれる神様であることを知りました。人類の姿を見て、悲しまれ、苦しまれている悲惨な神様であることを知ったのです。
しかし、私たちは、神様の不安や怒りには、あまり目を向けることがなかったかもしれません。でも、人の情の構造を見ながら神様のことを考えたとき、神様の不安と怒りという視点を持たざるを得なくなってくるのです。
では、神様に不安や怒りはあるのでしょうか。先に述べたように、もともと人間の不安は良心の呵責の中にありましたし、怒りは防御反応などとして、喜怒哀楽の原型は存在していました。それが、堕落を通して、知情意がきちんと育つことができず、さらに悪なる環境の中で、心を壊していくようになってしまいました。神様は、堕落人間のように知情意の各機能に問題を抱えていたとは考えられません。しかし、子供が堕落して、悲惨な生活をしている姿を見る中で、あるいは復帰摂理を進めたくても、人間の責任分担が果たされないために進まない状況の中で、不安や怒りを抱えていったとしても、おかしくはない状況であったに違いないと、私は考えます。
ただ、神様と私たちが違うところは、そうした不安と怒りの中にあっても、真の愛をもって越えてこられたことでしょう。つまり、即時に救い(復帰)のプログラムに着手され、完全に破壊し去ることはなされなかったのです。そして、長い歴史をかけて、私たち人類の救済の摂理を進め、今日の勝利を迎えられました。しかし、様々な感情を抑えて越えてこられることが、どれほどの苦しみだったことでしょうか。私は、これまで、精神疾患を患った人やその家族の方々と面談をしてきました。本人も、その家族も、その苦しみは本当に大変なものです。神様も、子供たちの苦しむ姿を見て、どれほど心を痛められたでしょうか。また、子供たちである人類の言動が、どれほど神様を傷つけてきたことでしょうか。しかし、愛の神であるがゆえに、心の中にある思いを誰にもぶつけることができずにきた神様だったのでしょう。
ところで、『聖書』の中に「神の怒り」「主の怒り」という言葉は、どれくらい出てくるのでしょうか。パソコンで検索してみたところ、日本語の旧約・新約全体で、四十以上(口語訳)あります。一方、さすがに「神の不安」という言葉は、一箇所もありません。皆さんは、こうした検索結果をどのように感じたでしょうか。ただ、不安や怒りという言葉をはっきりと使っていなくても、『聖書』を読んでいくと、特に旧約『聖書』を読んでいくと、神様の心情の揺れや怒りを感じさせられる箇所が少なくありません。
それを一番読み取れるのは、モーセ路程でしょう。
出エジプトからカナンの地にたどり着くまでの荒野四十年路程の間に、イスラエルの民の不信仰ゆえに、モーセに対して、神様は「イスラエル民族を滅ぼす」、とおっしゃったことが何回かありました。そして、その度にモーセは、神様に対するとりなしをして、そのモーセのとりなしのゆえに、神様は怒りを収められ、イスラエルは旅を続けることができたというのです。
以下に、そのうちの一箇所(出エジプト記第三十二章九節~十四節)を挙げておきます。
主はまたモーセに言われた、「わたしはこの民を見た。これはかたくなな民である。それで、わたしをとめるな。わたしの怒りは彼らにむかって燃え、彼らを滅ぼしつくすであろう。しかし、わたしはあなたを大いなる国民とするであろう」。
モーセはその神、主をなだめて言った、「主よ、大いなる力と強き手をもって、エジプトの国から導き出されたあなたの民にむかって、なぜあなたの怒りが燃えるのでしょうか。どうしてエジプトびとに『彼は悪意をもって彼らを導き出し、彼らを山地で殺し、地の面から断ち滅ぼすのだ』と言わせてよいでしょうか。どうかあなたの激しい怒りをやめ、あなたの民に下そうとされるこの災を思い直し、あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルに、あなたが御自身をさして誓い、『わたしは天の星のように、あなたがたの子孫を増し、わたしが約束したこの地を皆あなたがたの子孫に与えて、長くこれを所有させるであろう』と彼らに仰せられたことを覚えてください」。
それで、主はその民に下すと言われた災について思い直された。
ここでは、神様ははっきりと、ご自身の怒りを表明され、イスラエルの民を滅ぼすと宣言されています。しかし、モーセのとりなしにより、その怒りを収められたのです。
さらに、お父様のみ言を見ていくと、神様にとってアダムとエバは初めての子供だったので、アダムとエバの堕落のとき、「神様が人間には想像もできない大きな衝撃を受けられた」(御言選集18-一九五、一九六七・六・八)というものもあります。
また、『聖書』歴史は六千年、さらにアダムからノアまでは千六百年になっていますが、実際にはかなりの期間がたっているとも言われています。この期間、神様は何をなされていたのでしょうか。神様自身も、アダムとエバの堕落がショックで、人類救済に対して、途方に暮れる思いであった、というようなみ言も聞いたことがあります。
実際に、堕落があまりにもショックで、しかも、その結果があまりにも悲惨であったために、救援摂理を進める気力もなく、「もし、アダムとエバが堕落していなかったなら、どんな世界ができていただろうか……」という思いにふけられたことがあったとしても、不思議ではないように思います。
そして、神様にとって、メシヤを地上に送ることは、世界中の海の中で、たった一匹しかいない魚を釣り上げるよりも難しかったとも、お父様は語られています。復帰の路程においては、人間の責任分担があるがゆえに、神様にとっては、本当に先の見えない歩みであったに違いありません。
ところで、神の怒りということを考えていくとき、次のようなみ言についての質問を受けることがあります。
「旧約の主なる神の属性を見ると、嫉妬心の強い神として、『私』以外の他の神に仕えるならば恐ろしく嫉妬される神様であり、イスラエル民族にカナン七族を残らず滅ぼせと命じた残忍な神であり、律法と法度に反したイスラエルの民を目の前で倒した無慈悲な神様です。宇宙を創造された愛の神様であるのに、このような嫉妬と、復讐と、恐怖心と、カナン七族を無慈悲に滅ぼすという、こんな性稟(せいひん)があっていいのでしょうか。旧約時代は、天使が仲保となって神様に代わった時代だからです」(『天聖経』130ページ)
このみ言によれば、神様は愛の方なので怒りはなく、旧約時代は、天使が仲保者であったので、神様の怒りのように見える部分があるのではないか、だから、私がこれまで書いてきた神の怒りというものは存在しないのではないか、という質問です。このみ言をどのように解釈したらいいでしょうか。それが、この質問の答えになると思います。
確かにこのみ言によれば、旧約時代の神の怒りは、神様自身のものではなく、天使長のものであり、神様はそのようなお方ではない、と理解することができます。だとすると、私がこれまで展開してきた論理は崩れることになります。ただ、このみ言をそのまま受け取るには、いくつか不自然な点があります。
まず、天使は神様の許可なく、勝手にカナンの民を滅ぼせと言ったのかどうか、ということです。天使が神様の許可なく、勝手にそのようなことをするとは思えませんし、天使にはそうした権限はないはずです。
次に、このみ言に従えば、愛の神様は怒りをもたれることはないことになるという点です。先に述べたように神様と人間が親子であるならば、同じような情をもたれるはずです。なので、先に述べたような愛の神様も怒りをもたれることがあるという理論的な結論が出てきます。人間と同じような情をもたれないとすれば、どのようにして親子の心情的な出会いができるのか、この点が問題になります。
また、『天聖経』の中には、次のような内容のみ言もあります。
「さて、旧約聖書を見ると、神様が闘えと言いましたか、闘うなと言いましたか。サウル王が戦争に勝利した後、女と子供だけ残して、男をすべて殺せといわれたのに、殺さなかったので罰を受けたことを知っていますか。どうしてそうなったか考えてみましたか。サタンの男を生かしておけば、サタン世界が再び侵犯するので、そのようにさせたのです」(『天聖経』131ページ)
このみ言によれば、旧約時代、カナンの民を滅ぼすにも原理的な理由があるということになります。だとすれば、先の130ページのみ言と矛盾することになります。以上の三つの理由から、先に述べた130ページのみ言は、神様の怒りを否定するものではない、という結論が出ます。
ではなぜ、130ページのようなみ言があるのでしょうか。これには、二つの理由があると考えます。
一つ目は、神様の心情を慰めるためです。私たち自身が腹を立てて怒ったときのことを考えてみてください。あとから振り返ると、その時のことがつらく恥ずかしい経験として思い出されることがあります。ですから、神様も、過去のご自身の怒りについて、いろいろな思いをもたれていることでしょう。そうした神様の心情を慰めるとともに、私たちに対して神様の愛を訴えるために、質問として挙げられるみ言(『天聖経』130ページのもの)をお父様は語られたのだと思います。
二つ目は、私たちの恐怖心をなだめるためです。ある教会員は、「旧約時代の神様の記述を見て、神様の怒りに対する恐怖が拭えなかった。自分自身が罪を犯したら、あの旧約時代のように、神様の怒りで自分が罰せられるのではないかという怖さをどうすることもできなかった。しかし、『天聖経』の130ページのみ言を読み、本当に救われた。神様の愛を確信できた」と言いました。
この教会員の例を考えてみると、このみ言は、私たちが恐怖心を克服し、神様の愛に出会っていくために語られたものだと理解することができます。
『聖書』のみ言が多義的であり、時として正反対の内容が記述されているように、お父様のみ言も多義的で、時として正反対の内容を語られていることもあります。私たちは語られた文脈、語られた時のお父様の心情、語られた時代性を考えながらみ言を理解することの大切さと必要性をいつもかみしめながら、お父様のみ言を読んでいきたいと思います。
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次回は、「天地人真の父母様とは」をお届けします。