2019.05.17 22:00
愛の知恵袋 65
目を離しても、心離すな
松本 雄司(家庭問題トータルカウンセラー)
少年を襲った災難
要(かなめ)という名のその少年は、大正元年、大分県の国東(くにさき)町で生まれた。家は代々続く農家の一族の本家だった。9人兄姉のうち6人は成人前に死去し、男3人の兄弟が残り、要は次男の立場であった。尋常高等小学校を卒業し、農学校へ進学したが、14歳の時、思いがけない災難に襲われた。
いつものように学校から帰って、父の農作業を手伝うために畑に出たが、体中がだるくて動かない。やっとの事で家に辿り着いて、そのまま意識不明になったが、39度を超える高熱が3日経っても下がらず、大分県立病院へ搬送された。
病名は「突発性骨膜炎」。リレーの選手として運動場で練習していた時、転んで右足に負った傷から菌が入ったらしい。骨膜の炎症で、右足が胴体ほどに腫(は)れ上がり、入院後、直ちに右足を切開手術した。抗生物質のペニシリンが発見される数年前で、当時としては化膿・炎症を防ぐ手立てがなく、血管や筋肉を切除する大きな手術になった。退院しても寝たきりで、6年間は、毎日ガーゼの取り替えをしなければならなかった。
“チンバ、チンバ”とはやされて
20歳の秋、やっと包帯がとれ、嬉しくて嬉しくて、松葉杖にすがって戸外に出た。久しぶりに吸う外の空気は本当に気持ちの良いものであった。しばらくすると、村の人たちが物珍しげに近づいてきた。そして子供たちから「ああ、チンバじゃ! チンバじゃ!」と言ってはやし立てられた。
初めて言われた「チンバ」という言葉に、要はショックを受けた。右足は曲げることが出来ず、棒のようにまっすぐ伸びたままだったのだ。
それからは、松葉杖をついての療養生活になったが、胸に抱いていた夢は崩れ去り、将来を考えると暗い気持ちになった。そんなある日、縁側近くの部屋にいた要の耳に、近所の人たちの世間話が聞こえてきた。
「カナちゃんもむげねえ(※1)けど、兄貴の必次(ひつじ)さんも大変じゃな。一生、面倒をみることになるじゃろう」
それを聞いた要は、言いようのない悲しい気持ちになった。
自分は生きていてはいけない
その日から、要はじっと思い詰めるようになった。「このまま自分が生きていけば、両親や兄弟の重荷になってしまうのだ…」
1週間ほど経った日の朝、家族がまだ寝ている暗い時、要はそっと起き上がり、足を引きずりながら海岸へと向かった。そして、海辺に出て岩の上に這い上がった。
「自分はなんでこんな体になったのか…」岩の上に座って、自分の運命に泣くだけ泣いた。そして、意を決して、海に身を投げた。
その瞬間、後ろから誰かが飛び出して、要の足に抱きついた。そして、要は力いっぱい殴られた。
「お前をここで死なせるぐらいなら、なんで身上(※2)をはたいて治療を受けさせるか! 何を考え違いをしちょるんか!」と言って、その男は要を抱きしめて泣いた。
初めて知った父親の心
父親の唯次(ただじ)だった。「最近、少し様子がおかしい」と感じていた唯次は、家を出た要の後をつけてきたのである。
体を震わせて慟哭(どうこく)する唯次を見て、要は父親の気持ちを初めて知った。「自分は死んではいけないのだ。どんなことがあっても、生きなければならないんだ」という強い思いが湧いてきた。
しばらくして、父親は「のうカナ。これからのことを考えようや」と言った。要はいろいろ考えた末、足が不自由でも出来る仕事として、紳士服のテーラーになろうと心に決め、同時に松葉杖を捨てて、自分の足だけで歩く訓練を始めた。
地元の先生に弟子入りして、仕立ての基礎を習得した後、日本でも第一級の技術を身につけたいと考えて、東京の松竹映画社直属の松竹洋服技能専門学校に入った。そこで最先端の紳士服縫製技術を身につけた後、東京の小石川で自分の店を構えた。結婚して家庭を持ったのは終戦の少し前だが、父・唯次はすでに他界していた。要は94歳まで生きたが、“自分の足で歩く”という信念を貫き、晩年も一切、杖をつかなかった。
顔を知らない祖父への感謝
私は、父方の祖父の顔を知りません。しかし、私はその祖父に、心から感謝しています。なぜなら、この少年は松本要。私の父親なのです。
もし、あの時、祖父(唯次)が息子(要)の心の異変に気付かなかったら…。そして、家をそっと出た息子の後を追ってくれなかったら…。そう、私はこの世に生まれていなかったのです。祖父が、父の心をじっと見守っていてくれたお陰なのです。
子育てを考える時、私がいつも思い出す言葉があります。親業訓練協会常務理事の江畑先生から教えていただきました。
「乳児は肌を離すな。幼児は肌を離しても手を離すな。少年は手を離しても目を離すな。青年は目を離しても心離すな」
誠に含蓄深い内容で、どの親にとっても子育ての指針になるものと思います。