夫婦愛を育む 59
“平等”=“均等割”ではない

ナビゲーター:橘 幸世

 先日ある県議会議員が特別支援学校に通う子供とその保護者たちの現状について話していました。それを聞きながら、数年前に参加した地元の大学でのある講座を思い出しました。

 公教育は、数字だけ見れば決して平等ではない。支援が必要な生徒に対しては、一人当たりの先生の数も多いし、費やされる税金も多い。遠方から通う生徒への交通費の補助一つ見ても、場合によっては桁が一つ二つ違ってくる。けれど、同質の教育を受ける機会を平等に提供する、という点で見れば、それでいいし、公教育なればこそできることだ、と語っていました(教員免許更新のための講座でしたが、この授業の最後には参加した教員たちから自然と拍手が起きました)。

 男女共同参画社会がうたわれて久しい日本です。従来の考え方にとらわれず、いろんな形があっていい、各人の考え方・在り方を尊重しよう、と言われてきました。そんな中、家庭や社会は、より幸福で生きやすくなったでしょうか。
 
 形だけ同じにしたり均等に分けるのが“平等”だと考えると、むしろ争いが起こります。
 「私はこれだけやったのに、あなたは私の半分もやっていない」と責めたり、「そんなにやってもらって申し訳ない」と好意を受け取れなかったりするのです。

 実際、私たちの社会は何もかもが平等に分担されているわけではありません。豊かな人はより多く税金を納め、助けを必要とする人たちを国や自治体がサポートしています。

 ましてや、愛の関係においては、フィフティ・フィフティの計算は成り立ちません。
 親は、子供を一人前に育てるのにいくらかけたと言って、後でそれを請求したりしないでしょう?
 「あんなに愛して育ててやったのに、親を見捨てるのか」などと言えば、“愛”ではなく“束縛”になってしまいます。子供がおのずと親孝行したいと思って行動するのが愛の関係です。そこに計算や均等割はありません。

 夫婦関係も同様です。男性と女性の本性の違いや各人の得手・不得手を軽視して、仕事も家事も均等割すると、かえって双方が気持ち良くやっていけないのです。

 生活を共にする限りはある程度の役割分担は必要ですが、「やった」「やらない」という点に目を向ければ、ストレスや批判的気持ちが湧いてきやすくなります。

 相手がいとおしければおのずと「やってあげたい」気持ちになりますね。
 まずは、そんな気持ちを育むことに焦点を当てましょう。いずれ自然に、仕事や家事はよりよく回っていくようになるでしょう。