自叙伝書写 感動体験集

第58回 書写を始めて起きた三つの奇跡

(東京都府中市、女性)

 まず、私の紹介と、書写の会に出合ったきっかけをお話しします。

 私は昭和20年4月に満州・大連の小学校へ入学、8月15日の終戦と同時に、ソ連兵の強奪、略奪、現地人(中国の)集団泥棒に遭遇しました。
 日本人は食べる物も無く、どんなに痛い目に遭ったことでしょうか。私の叔父は終戦間近に魚雷にやられました。父は海軍で九死に一生を得て、私たちは着の身着のままで、なんとか内地に引き揚げることができました。
 就職、結婚、子育て、老人介護15年、プラス15年、私もあっという間に後期高齢者(76歳)となりました。

 40年前のある日、突然歩行困難となり、先天性股関節脱臼によるものと診断されました。5人の子供を抱え、どうしようかと途方にくれていたところ、医師から「運動をしなさい」と勧められました。

 2歳の子供を抱え、小学校の体育館に行き、何とか二本の足で歩ければという思いで卓球を始めることにしました。玉拾いからのスタートでしたが、その後、卓球を楽しむ会をつくり、38年間、毎週火曜日に近隣の中学校の体育館で夜の7時から9時まで練習に行っています。そこで、こちらの書写の会の紹介者であるMさんと出会うことになったのです。

 韓国のかたがたと交流試合をするため、企画を担当していました。Mさんに韓国語の通訳兼選手として声を掛けてみましたら、快く引き受けてくださいました。
 試合の合間に練習場所や費用の件、韓流ドラマ(トンイ、イサン、ホジュンなど)を見ていること、来年は日本の選手団が韓国に遊びに行きたいという旨の意思の疎通ができました。その甲斐あって、韓国のかたがたは大変喜んで帰国いたしました。

 日韓交流卓球大会は大成功でした。韓国は昔から親や先祖、目上の人を大切にする国で、日本人も見習わなければいけません。人を大切にすることが、世界平和につながると思います。戦争だけは絶対にダメです。

写真はイメージです

 数日後、Mさんから自叙伝書写感謝の集い2周年記念大会(2000人規模の大会)のお誘いをいただきました。

 初めは「書写の会」というので、お習字の展覧会だと思って、お友達にも声を掛け、気軽に参加しました。会場に着くと、まず大ホールに大勢の人が集まっているのにびっくりしました。そしてどこにもお習字は展示されていませんでした。

 それどころか、いきなり筆を渡されて「人々に幸福をもたらす者となろう」の書写を私が書くことになってしまったのです。
 実は私は字を書くのが一番苦手なのです。でもそこには浅川勇男先生の楽しいお話、会場の皆さんが明るく前向きに生きている姿がありました。
 大会に参加して、私も頑張らなくてはと思い、その日から私も心の書写を始めることにしました。

 書写の集いにも参加させていただき、浅川先生のお話にとても感動し、「心を明るくし清めよう」の書写が気に入って毎日書き続けました。

 そんな時、80歳になる私の従姉妹(いとこ)が昨年の夏に息子を突然死で亡くし、落ち込んでいることを思い出しました。その従姉妹を元気付けてあげようと思って、私が書いた書写を一枚渡しました。その時、私が書いた字を見て「字がうまくなったわね」と褒められました。それ以降、従姉妹も少しずつ明るさを取り戻してきているのでホッとしています。

 Mさんを通してご縁を持たせていただいてから、さまざまな、不思議な出会いや良いことがたくさんありました。目に見えない何かに助けられていることを最近特に感じています。

 良いことが三つありました。

 一つ目は、東京都のグランドゴルフ大会で入賞したことです。340人が参加する中、男性6人、女性6人の東京都代表に選ばれ、全国大会に参加することになりました。Mさんから、自叙伝書写感謝の集い2周年記念大会のチケットを頂いた直後のことです。

 二つ目は、卓球大会で、私が総監督を務めるチームの女子Aが優勝、女子Bが準優勝したことです。

 三つ目は、私の次男がGM(ゼネラルマネージャー)を務めるフットサルチームが、阪神淡路大震災の全国フットサル大会において、全国一になったことです。

 実は私は4年前に交通事故で左腕を骨折し、手足を思うように動かせなくなってしまいました。その時は多くのかたの励ましをいただきました。
 命が助かったことで、私にはまだこの世でやることがあるのではと思わされました。それからは、前向きに何でも行動することで一日一日が開けてくるような思いです。
 特に人と人とのつながりを大切にしてきたことが、不思議な縁につながっているのを感じます。こちら(世界平和統一家庭連合)とのご縁もその延長線上にあるものと思っています。

 人生のアディショナルタイムに入っている今、皆さまと共に楽しい時間を過ごしたいと思います。