信仰と「哲学」11
神を「知る」ということ~直感の大切さ

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 神を知るということは、どういうことなのかを考えてみましょう。まず、神を知ることの意義について、『原理講論』には次のように記されています。

 「人生と宇宙に関する問題は、結局それを創造し給(たも)うた神が、いかなるお方かということを知らない限り解くことができないのである」(『原理講論』p.41)

 人間が生きることの意味や意義、目的、さらに他の人や自然万物と共に生きるためにはどうしたらいいのか。そのためには、まず、原因的な存在である神を知らねばならないというのです。

 例えば、ここに腕時計があります。その存在の目的やあるべき存在の在り方はどうなのか。それを知ろうとして、そこにある結果的存在である時計を細かく分解してみても、全く分かりません。ガラスや金属片、歯車など、いくら分解して並べてみても、全体として「何のためにあるのか」、すなわち存在目的を知ることはできないのです。

 では、どうしたら知ることができるでしょうか。
 それは人間が、ある目的をもって作ったのですから、原因的存在である人間を知る、すなわち人間が腕時計を作った意図、目的が何であったのかを知る必要があるのです。

 神を「知る」ということについて考えを進めていくことにします。
 これまで、「知る」ということにも段階があるといわれてきました。認識論においては、感性、悟性、理性の順で認識が深まると説明しています。

 一番低い段階である感性的段階は、感覚による認識です。人間の持つ感性とは、受容性(物事を受け入れる能力)です。直感を通して、感覚的な対象(色や音、においなど。さらに喜怒哀楽の情的要素も含む)によって触発された内容が時間、空間の形式の枠内で認識された段階です。

 悟性的段階は、悟性による認識です。悟性は知性と言い換えることができます。概念、すなわち心に思い描いた像から対象を認識するのです。

 そして理性的段階です。理性は、概念と概念を関連付けて推論し、仮象(あるように思えても実在を確認できないもの)として捉える能力です。現象を関連付けて統合し、理念的、法則的に認識する段階なのです。

 ところが、文鮮明先生は「直感」を非常に重要視されました。しかしそれは、磨かれた「直感」のことだったのです。(続く)