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幸福への「処方箋」30

 「幸福への『処方箋』」を毎週火曜日配信(予定)でお届けいたします。

野村 健二(統一思想研究院元院長)・著

(光言社・刊『幸福への「処方箋」~統一原理のやさしい理解』より)

第五章 堕落性からの脱却

①堕落性本性 1
―神と同じ立場に立てない

 この「堕落性本性」の基本的特質として、「神と同じ立場に立てない」。すなわち、天使長が「神が愛するアダムを、神と同じ立場で愛することができず、彼をねたんでエバの愛を蹂躙した」という点に焦点を置いて、これまで分析を進めてきました。

 この堕落性を脱ぐためには、「その堕落性本性をもつようになった経路と反対の経路をたどることによって、蕩減条件を立てなければならなかった」(『原理講論』294頁)とされます。具体的には、アダムの家庭では、神への供え物を顧みられず、神の愛を受けられなかった「天使長の立場にいるカインが」、供え物を顧みられ、神の愛を受けられた「アダムの立場にいるアベルを愛して、神の立場にあるのと同じ立場をとるべきであった」というのです。

 メシヤが再臨された後では、すでに再臨のメシヤにつながっている人がアベルの立場、これからつながろうとしている人がカインの立場にあります。それゆえ、つながろうとする人が、すでにつながっている人を愛すべきだということになります。

 それでは、つながっている人(アベル)がつながろうとする人(カイン)を愛さなくてもいいのかといえば、決してそうではありません。

 カインは神からの愛を体験することができず、そのために空しかったり、苦しんだりしているのですから、神の愛を体験してその素晴らしさを知っているアベルが、それを体験していないカインを全力で愛し、その結果、カインが満足してアベルを愛さずにはおられないように運んでいく責任があります。愛の量としては、アベルはカインがアベルを愛する以上に愛さなければならないといえますが、その授受作用の主体となるべきなのはどこまでもアベル(メシヤに近い側)であって、カイン(メシヤに遠い側)ではないというのです。

 こうして第四章で述べたように、まず神の心情(愛)と創造目的を土台として、相手と自分の共通目的、共通事情をとらえたら(これが「正」)、次には、再臨のメシヤと近い側が主体、遠い側が対象となって授受作用を行い(これが「分」)、その結果として合性体(主体と対象の調和の実現)、新生体をつくり出す(これが「合」)。この「正分合作用」という概念のうちに、幸福実現の根本原理が集約されているといえます。

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 次回は、「自己の位置を離れる」をお届けします