信仰と「哲学」9
「哲学」の始まり~神との出会い―悲しみに襲われる

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 その時(「祈り」の時)、何が起こっているのか分かりませんでした。ただ「苦しい」、そして「絶望」、自分の理性で何かをつかもうとすることの限界を感じ、その努力を「放棄」するしかないという無力感に打ちのめされていました。

 そこに突然襲ってきたのが「悲しみ」「悲哀」でした。突然のことでした。なぜ悲しいのか、どうして悲しくて涙が溢れるのか理解できませんでした。それまで自分の心にあったのは、苦しみであって悲しみではありませんでした。

 時間を計ったわけではありません。でも1時間以上、2時間かもしれませんが泣き続けました。そして次第に、「これは神の涙だ」との思いが強くなっていきました。ようやく、自分で考えることができるようになり、私という存在が神にとって悲しみとなっていると感じていったのです。

 歴史と現実において人間がつくり出す惨状を清算できない神など存在するはずはないと罵(ののし)ってきた自分。実在される神を無視し、ただただ自分のことだけで「苦しい」ともだえる私に対して、神は泣いておられると考えました。

 初めは何が起きているのか全く分からない、驚きとともに襲ってきた悲しみでしたが、次は自分の理性で納得した神の悲しみでした。そしてさらに泣いたのです。

 あまりに泣き続けてまぶたが腫(は)れ、目を開けようとしてもうまくできませんでした。祈祷した柿の木の下から離れ、就寝する部屋まで続く廊下を歩いていきました。途中に大きな鏡があって、自然に自分の姿が映ります。そこで見た自分の姿は、「誰この人?」と思うほど目が腫れあがっていました。

 神の声を聴いたわけではありませんでした。しかし、「神に触れた」「神と出会った」という感覚を心に刻みながら、そっと眠ったのです。

 翌日から、神の実在に対する迷いは無くなっていました。S先生の講義の内容も、すっと心と頭に入ってくるようになったのです。統一原理の講義は、神の立場に立って聞かなければ分からない、理解できないということを実感することとなりました。

 この体験をS先生も喜んでくださり、何日か後に、修練会で話す(証しする)ことになりました。でも表現することが本当に難しく、支離滅裂で分かりにくい話になったと思います。

 こうして信仰の第一歩を踏み出すことになったのですが、この体験は、「真実在」(本当に存在するもの)を知ることについて述べている西田幾多郎の言葉や、釈尊の悟りについての鈴木大拙の言説と重なって、重要な意味を持っていたことを私は確信していったのです。(続く)