2024.05.03 12:00
統一原理Q&A 18
「統一原理Q&A」を毎週金曜日配信(予定)でお届けしています。
統一原理に関する解説が分かりやすくコンパクトにまとめられています。統一原理への理解を深めるために、ぜひ読んでいただきたいシリーズです。
白井康友・著
Q:モーセと共にエジプトを出発した外的イスラエル民族は、ヨシュアとカレブ以外全員滅亡してしまいましたが、彼らは荒野路程の途中でなぜ挫折してしまったのでしょうか、私たちに対する信仰の教訓として、その理由を詳しく説明してください。
A:人間始祖の堕落により、神の世界からサタンの世界へ陥ってしまったので、復帰摂理の目的を達成する中心人物としてのモーセは、サタン世界であるエジプトから祝福の地カナンへ復帰する路程を歩みました。個人の信仰路程においても、仏教の教えの中に「出家」という言葉があるように、まず、サタン世界を象徴する故郷や家を捨てるところから出発します。
その時に課題となってくるのが、住み慣れた環境に対する未練の問題ですが、モーセ路程の中で、神はモーセに三大奇跡と十災禍を起こす権能を与えられ、エジプト人を打つことによって、「出発のための摂理」(『原理講論』361頁)をされました。神は災禍の奇跡を行われるたびにパロ王の心をかたくなにされましたが、その理由の一つは、イスラエル民族をしてパロ王に対する敵愾心(てきがいしん)を抱くようにさせ、エジプトに対する未練を断たせるためでした。
さて、そのようにしてモーセに導かれてエジプトを出発した民族でありながら、なぜ途中で挫折し、失敗してしまったのかを考えてみましょう。その理由について文先生は、「目的地(カナン)に行くその価値が帰るだけの目的、自分の生活の安定だけを願う目的であったため、それ以上の苦労、それ以上のつらさがあれば、これは当然モーセに対し反対し、神に対しても不信仰するという立場に立つことになる」(「イエス様の最後と我々の覚悟」1965・1・31)と語っておられます。
言い換えるならば「…からの自由」という言葉があるように、民族が求めたのは、「束縛からの自由」「苦労からの解放」であり、多分に逃避的な動機でした。ところが出発した先は荒野であり、水や食物も十分に恵まれず、「それ以上の苦労やつらさ」があった時に「エジプトでは、ただで、魚を食べた。……われわれの目の前には、このマナのほか何もない」(民数記二・五、六)とモーセに対して、不平不満をつぶやき始めたのです。
私たちの信仰路程も内的荒野路程と言われるように、様々な苦労や苦難が待ち受けています。それゆえ、信仰の出発が、現実的な苦しさやつらさから逃れて、御利益的な結果のみを求める逃避的動機であれば、必ず行き詰まるに違いありません。ここで出発における心情の動機の転換が必要となりますが、それはどのようにして成すべきでしょうか。
モーセ路程を参考に考えてみると、カナン復帰とは神の願いであり、民族として必然的に行くべき目的地です。それゆえ、民族は「どんなことがあってもカナン復帰を成す」という目的観念に徹することが必要でした。ゆえに「カナンの福地はモーセが死んでも、族長が死んでも、私は行くという信念をもって行かねばならない」わけですが、民族にはその目的観が欠如していたことが分かります。
正に私たちの信仰路程もそのごとくであり、自分の救いのために神を求めていく動機から、神の願いと目的を明確に知り、神のために神を求めていくという、神を中心とした動機へと転換していくことが重要なのです。
さらに組織的な面から考えてみると、民族は、神とモーセが一致して願うカナンを慕う心が分からず、彼らの中心者であり責任者であったモーセの内情、心情がほとんど分かりませんでした。それゆえ、わずかな試練や困難に直面するとすぐにモーセを批判し、文句を並べ立てるありさまでした。組織的責任者に対してどのような気持ちで接していくべきかを、文先生のみ言から引用してみましょう。
「100人の責任者なら100の荷物を背負っている。その時自分自身は100分の1ではない。自分は責任者に一番近い第一の者である。だから責任者は100の責任を持っているが、各自も99人の責任を持っている。99人の身代わりとなっている。そういう立場で責任者に対する。そういう立場で命令を受ける。そういう気持ちで動くと一つにならざるを得ない」(「生きた供え物となるために」1967・6・30)。
そのような意識で歩む人は、組織的活動の中で何か失敗があった時には、責任者に責任をなすりつけたり、安易に批判したりすることはありません。なぜなら、「私が99人の責任を持ちながら、責任者の良き助け手になれなかったからだ、だれをおいても私が悪かった」と考えるからです。そのように自分を責める人であったら間違いなく「第二の責任者」になり得るわけです。その点から考察していくと、責任者としてのモーセには、第二の責任者としての自覚を持った者がほとんどいなかったことが分かります。本来モーセの片腕として活躍すべきであったアロンとミリアムでさえも、「主はただモーセによって語られるのか」(民数記一二・二)とモーセを非難する始末でした。
「第一の責任者を中心として数多くの第二の責任者がいる」組織が築けたならば、モーセを中心として、民族は必ずやカナン復帰の目的を達成したに違いありません。
最後にもう一つ考えてみますと、カナン復帰とは地上天国復帰の象徴であり、神の国は「『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない」(ルカ一七・二一)とイエスが語っておられるように、空間的にそこに「ある」ものではなく「つくりあげていく(創建すべき)もの」なのです。
さらに「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ一七・二一)とイエスが語られたごとく、一人一人の心の中に、神の臨在できる天国人としての心情基準を確立していくことが出発点であり、民族全体がモーセと一体化し、神が働くことのできる心情基盤を確立した時に、正に民族的力ナン復帰として、カナンの地を天国化していくことができたのです。
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次回は、「イエスに対する第一試練とは」をお届けします。