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文孝進様の孝情に学ぶ 7

証し 文孝進様の思い出
「真の父母様の解放のために身もだえされた生涯」

 3月17日、文孝進(ムン・ヒョウヂン)様(享年45)の聖和16周年を迎えました。孝進様の孝情がいかなるものであったかを学ぶ一助として、孝進様に近く侍ったかたの証言を紹介します。(一部、編集部が加筆・修正)

 今回は、音楽を通して孝進様に侍った日本人男性Hさん(36万双)の証し「真の父母様の解放のために身もだえされた生涯」(『トゥデイズ・ワールド ジャパン』20159月号掲載)の第5回です。

敵を許すことに勝利された「忠孝開門主」

 20051228日、ボストンでご子息の信吉(シンギル)様が交通事故で亡くなられました。信吉様が亡くなる1週間前に、孝進様は信吉様と数年ぶりに会っておられました。

 孝進様のショックは計り知れないものでした。その3日後の200611日から、孝進様はベルベディアで早朝の説教を始められました。その礼拝は毎週欠かさず、2008年の聖和まで続けられたのです。

 孝進様はこうおっしゃいました。「父として信吉に何の教育もしてやれなかったのが心残りだ。彼を教育するために礼拝をする。彼は霊界で聞いているだろうから」

 2年余りにわたって語られたこの説教は、霊的に研ぎ澄まされた、とても深い内容です。珠玉の説教です。真のお父様も、孝進様がこのように説教を続けられたことを評価しておられたと聞いています。

▲真の父母様と孝進様のご家族

真の孝行息子
 最近、真のお母様がよく孝進様を孝行息子として紹介されます。それは、孝進様が真の父母様と同じゴールを見ていらっしゃったからではないかと、私は考えています。

 実は、生前の孝進様は誰の言うことも聞かなかったのです。真の父母様の忠告さえも……。ですから、はた目からは「音楽ばかりやっている道楽息子」に見られがちでした。しかしそれらの行動の全ては、「理想世界を築きたいんでしょう? だったら、そのためには、こういう道がありますよ」という確固たる信念があってのことだったのです。

 ですが、それは簡単な道ではありません。事実、孝進様がマルチメディアの分野を開拓したいとおっしゃったとき、真のお父様は「それは大変だからやるな」とおっしゃったそうです。孝進様は、「簡単だからやれ」と言われたら、むしろなさらなかったのではないでしょうか。

 「孝行息子」とは、父母から言われたことをそのままやるだけでは不足なのだと思います。孝進様は、真の父母様のゴールがこれだということをあらかじめ分かっていて、それだったら、自分はこの道でできる、これが最大のささげものだと信じて、それに人生を懸けたのです。

 孝進様は2007年頃、長年にわたってどうしても許すことができないでいた食口(シック)と、涙の和解をされました。その食口が病気で入院したときに、韓国までお見舞いに行かれたのです。その食口に対して「許す」とおっしゃり、そのかたも悔い改めたのです。
 それからの孝進様は、「私は名前のとおりに生き、良く死ぬ」と繰り返し語られるようになりました。

 2004年に「最後の祈り」の詩を書かれた日のことを思い出します。孝進様はご自分で歌ったこの曲を何十回となく聴かれて、ひたすら泣かれました。

恨みを超え、常に前を向いて歩まれた
  孝進様は、真の父母様の解放のために身もだえしながら、信じられないほど重い十字架を背負って、目を覆うほどに痛々しく人生を駆け抜けて行かれました。

 私は個人的には、孝進様の勝利は「恨みを乗り越えた」ということではないかと思っています。孝進様は憤怒に翻弄されながらも、常に前を向こうと努力されました。真のお父様が「敵を許しなさい」と言われたみ言は、孝進様がその生涯を懸けて闘ってこられた命題だったのです。

 そうであるからこそ、真のお父様から「深天開放苑 忠孝開門主」という偉大なお名前を賜ったのだと思います。

真のお父様のみ言
 霊界は秘密のようになっています。だれも知りません。深く、広く、高い天です。無限大の世界です。「深天開放苑」。それを開放することのできる新しい国の園という意味の「苑」です。開放する新しい園が開かれたのです。……それから「忠孝開門主」です。忠と孝の天の門が開かれ、家庭に平和の柱を立てるためには、開門主となって、父子の関係を持った家庭が代表にならなければならないのです。
2008318日、孝進様の聖和式後のみ言)

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 「文孝進様の孝情に学ぶ」は今回が最終回です。ご愛読ありがとうございました。


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