2018.09.06 22:00
文鮮明師自叙伝に学ぶ~心の書写 14
愛人─人を愛する生活
アプリで読む光言社書籍シリーズ第3弾、『文鮮明師自叙伝に学ぶ~心の書写』を毎週木曜日配信(予定)でお届けしています。なお、この記事に記載されている「自叙伝『平和を愛する世界人として』」のページ数は創芸社出版のものです。
浅川 勇男・著
【第四章】愛天愛人愛国
愛人─人を愛する生活
笑顔で愛する
人を愛することは笑顔を振り向けることです。神様は人間だけに笑顔を与えてくださいました。どんなにかわいい犬でも、笑うことはできません。人間だけが笑えるのです。
笑うためには、眉毛が下がり、口が丸くならなければなりません。犬は口が突き出ていて、おまけに歯は牙となっています。到底笑うことはできません。このハンディをしっぽでカバーしているのです。
なぜ、神様は人間だけに笑いを下さったのでしょうか。それは、隣人や家族を幸福にするためです。食べるためだけなら、笑いは必要ありません。現に、犬や猫は笑えないのに食べているではありませんか。人を幸福にし、自分が幸福になるために、笑顔があるのです。文鮮明先生は、次のように語っています。
「ほほえみは幸福の根源であり、根となるものです」(『愛天愛人愛国』55ページ)
「いつも笑顔でいなさい。笑顔は心の花です」(同、54ページ)
「微笑が幸福の根である」ということは、笑わなければ幸福になれないということです。まさに、幸福だから笑うのではなく、「笑う門には福来たる」なのです。
特に女性の笑顔は幸運を引き寄せます。
レオナルド・ダ・ヴィンチの不朽の名画に「モナリザの微笑み」があります。絵画の中の絵画といってもいい名画です。しかし、どんなに絵画技法が天才的であっても、「モナリザのやぶにらみ」だったら名作にはならなかったでしょう。
さらに、文鮮明先生は女性が幸福になるために、不思議なことを語られています。
「女性は、十種類の笑いを分別して笑うことができなければなりません」(同、55ページ)
「えっ、十種類の笑いってなあに……」と思わず叫んでしまいます。ただ笑えばいいというものではなく、時と場所と相手によって笑いを使い分けなくてはならないということなのです。女性が、笑い時と笑い場所、そして笑う相手を使い分けたら幸せになれるというのです。
例えば、一日の中で、笑い時は何といっても朝です。一日を四季に例えれば、朝は春に相当します。春、花や果物の種をまくように、朝、幸福の種をまくのです。朝の笑顔は幸せの種まき、といっていいでしょう。
では、どこにまくのでしょうか。ベランダではありません。玄関です。夫が仕事に出掛けるときに飛び切りいい笑顔で送り出すのです。この瞬間、奥さんは気立ての良い女神様になります。妻の笑顔で、夫は気分良く出掛け、仕事も順調に進み、お土産を買って帰ってくるかもしれません。奥さんは笑っただけでプレゼントがもらえるのですから、これほど投資効果があるものは他にありません。
ところが、ある奥さんは、朝、笑っているにもかかわらず幸福になれませんでした。夫が玄関から出たあとで笑っていたからです。夫が出たあと、気分が爽快になるからだそうです。やはり、笑うにも時があるのです。夫が転んだ時に笑えば、あざ笑うになります。けんかの種まきになってしまいます。
あるご主人が家に帰ってみたら、家が冷蔵庫のように冷え切っていたそうです。冷気が漂っています。「ただいま」と何度言っても、奥さんから返事がありません。しかし、玄関に靴があります。家にいることは間違いありません。食堂からトン、トンと大根を切る音だけが響いてきます。食堂に行ってみると、キラリと光る包丁を片手に持って奥さんがニヤリと笑ったそうです。これは不気味な笑いです。ぞっとして、恐ろしくなったご主人は、体を温めるために家からどこかに出て行ったそうです。
また笑い方も相手によって変えなければなりません。夫の前では、きゃっきゃと屈託なく笑ってもいいが、同じ笑い方を姑(しゅうとめ) や舅(しゅうと)の前ではしないほうがいいと、文鮮明先生は教示しています。品がないと思われかねないからです。
うまく使い分けた笑顔は「心の花」になるのです。花には蝶(ちょう)が引き寄せられます。幸運が引き寄せられるのです。また、ミツバチが来ます。財運も来るのです。
言葉で愛する
神様は人間に言葉を与えてくださいました。では、何のために言葉を語るのでしょうか。それは、隣人と家族を幸福にするためです。神様は、愛するために言葉を与えてくださったのです。食べるためだけなら、口があればよく、言葉は必要ありません。犬や猫は言葉が語れなくても食べて生きています。それゆえ、愛ある言葉、美しい言葉のみを語るべきなのです。人が聞いて幸福な気分になる言葉のみを語るべきなのです。
文鮮明先生は、「愛の心、真実をもって接しなければなりません。話をするにしても、一日に良い言葉を三回ずつ継続して言ってみてください」(『愛天愛人愛国』59ページ)と言われています。
ところで、良い言葉を三回どころか、何千回も唱えて幸福になったおばあさんがいました。
そのおばあさんは毎日、「自分ほど不幸な人はいない」と愚痴をこぼしていました。「同じ町内に嫁と孫が住んでいながら、一度も自分の家に訪ねてきてくれたことがない」と嘆いていたのです。そのため、毎日、嫁の悪口を言い続けていたのです。ところが、ある時、「こんなことをしていてもどうしょうもない。むしろありがとう、と言い続けてみよう」と思ったそうです。それで、朝起きてから「ありがとう、ありがとう」と言い続けたそうです。すると、奇跡が起こったというのです。一日千回言ったとき、一人の孫が訪ねて来たのです。
おばあさんは感動して、こう思ったそうです。「ありがとう千回で孫一人。そんならもっと回数を増やしたら、ひょっとして……」。それから一日三千回以上唱えたそうです。驚いたことに、孫三人と嫁まで訪ねてきて、しかも、おばあさんへのお小遣いがベースアップしたそうです。それで孫にプレゼントができるようになったそうです。今では、何万回も唱えているそうです。「ありがとう」という言葉は不幸な時ほど効き目(?)がありそうです。不幸な時に感謝できる人は天国人というべきです。
しかし、なかには、言葉を使って不幸になる人もいます。ひょっとすると、大半の人がそうかもしれません。文鮮明先生は言葉の恐ろしさについて語られています。
「もし言葉を一言間違えれば、その言葉を言った人も苦痛を受け、その言葉を聞く人も苦痛を受けるのです」(『愛天愛人愛国』61ページ)
ひとたび口から出た悪い言葉は、もはやその人の所有物ではなく、悪魔の所有物となり、不幸のために活用されるのです。そのため、悪い言葉や陰口を語った人がまず不幸になるというのです。ゴミは市が回収してくれますが、悪口という見えないゴミは回収してくれません。悪口の回収日などないのです。生ゴミが悪臭を放つように、悪口は悪霊を解き放つのです。悪口は不幸の種まきになるのです。しかも、直ちに不幸な出来事を実らせます。神様が幸福のために与えてくださった言葉で不幸になるほど愚かなことはありません。(続く)
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次回は、第四章の「愛国─国を愛する」をお届けします。