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小説・お父さんのまなざし

徳永 誠

 父と娘の愛と成長の物語。
 誰もが幸せに生きていきたい…。だから人は誰かのために生きようとします。

7話「パパ、分かってるじゃない」

 「男子、嫌い」

 夕食の時、娘のナオミがぼそっとつぶやいた。

 「え? どうしたの? 学校でなんかあったの?」

 同居する私の両親は先に夕食を済ませてリビングでテレビを見ている。
 いつもならナオミも祖父母と夕食を終えている時間だったが、今日はパパと一緒に晩ご飯を食べると言って、帰宅の遅い私を待ってくれていたのだ。

 私は食事中の箸を止めて、ダイニングテーブルを挟んで差し向かいに座っているナオミの表情を探った。

 「クラスの男の子に何か言われたの? まさか暴力を振るわれたとか…」

 「ううん。そうじゃないけど…、男子いつもうるさいし、やることがいちいち幼稚なんだもん。意味分かんない」

 ナオミも12歳になった。
 小学校の高学年ともなると、男女の成長の差が目立ってくる。個人差もあるが、女子の方が男子に比べて成長の度合いは少し早い。同時に男女の違いも際立ってくる。

 12歳は思春期の入り口だ。ナオミは同年代との間だけでなく、周囲の大人たちの言動に対しても敏感になっている。他者に対して葛藤する心も芽生え始めていた。

 「ねえパパ、今度の土曜日、学校公開なんだけど、覚えてる? パパ来られるの?」

 「学校公開? 授業参観日じゃなくて?」

 だいぶ前に案内のプリントを受け取った記憶はある。が、すっかり忘れていた、なんて言えない。

 ナオミは思いっきりあきれ顔を見せながら、「授業参観? 何それ、ったく~」とつぶやく。
 「ったく~」は「全くなってない」という代表的な駄目出しワードの一つだ。

 授業参観なら忘れるはずはないのだが、「学校公開」という響きはどうもピンとこない。「参観」と「公開」では、参加へのモチベーションも違ってくる。授業参観なら運動会と同じくらい参加意欲が刺激されると考えるのは、時代錯誤なのか。
 ママ友がいるわけでもなく、PTA活動とも縁遠い。今どきの学校用語辞典でも作ってもらわないととてもついていけない。

 同居の両親は、孫のナオミの生活面でのサポートはしっかりやってくれているが、学校への対応は父親である私が責任を持つという約束だ。

 妻のカオリが亡くなった後、母親役も自分が果たそうなどと考えたこともあったが、男親に母親の役割ができないことはすぐに判明した。
 父親と母親もまた、男性と女性の関係と同様その差異は大きく、なろうとしてそう簡単になれるものではない。
 男女の違いすら分かっていないのに母親役などできるはずもなかった。

 同じ人間であっても、男性と女性は違う生き物なのだ。
 『ベスト・パートナーになるために~男は火星から、女は金星からやってきた』というタイトルの本がベストセラーになっているぐらいである。同書は、分かり合えない男性と女性が分かり合えるようになるための知恵を授けてくれる魔法のような本らしい。

 たとえ父と娘であっても、男性と女性の違いが理由で齟齬(そご)が生じることがある。二人の間にギャップやジレンマを引き起こすこともあるのだ。イライラする娘に父親がオロオロすることもしばしばだ。

 火星人の父と金星人の娘が一緒に暮らしているのだと開き直った方が、メンタルのダメージが少なくて済むというものだ。まさに異なる星を故郷に持つ宇宙人たちが銀河の世界を往来する壮大な物語、映画「スターウォーズ」の世界観だ。

 もちろんナオミを私の両親に預けておけばなんとかなるなどと考えてはいない。けれど仕事が忙しいことを言い訳にしているうちに娘との距離は広がるばかりだ。
 子育てをないがしろにしてはいけない。仕事と家庭はちゃんと両立させなければならないのだ。

 私とカオリも夫と妻、男性と女性だ。二人の間にも相いれないこと、理解し合えないことはあった。
 「真の愛で一つになる」という教えを頼りに結婚したものの、一時にしてそれがなされるわけではなかったのだ。

 18世紀の科学者にして神学者、「霊能科学者」とでも呼ぶべきスウェーデンボルグは、こんな怖い霊界での見聞を著述している。

 「これはある精霊から聞いた話である。彼はある日、精霊界の広場のような所を通ったとき、身体に弾丸を突きとおされたような痛みを感じて思わず立止まった。そして左手のほうを見ると彼が世にいたとき知合いだった男の精霊が世にいたときとはかなり面変わりした顔で睨んでいた。彼は恨まれる心当たりはないので不審に思って、こんどは右手のほうを見た、するとびっくりしたことに、その精霊の妻だった精霊がやはりすごい顔つきで睨んでいるのだ。
 彼は、恐ろしさを感じてそうそうにその場を立ち去ったが、ふり向いて見るとこの二人の精霊はこの世の尺度でいえば十万メートルも離れたところからお互いにまだ白い眼を向けて睨み合っていた」(『私は霊界を見て来た』叢文社、今村光一抄訳・編)

 この夫婦は地上にあっては仲の良い夫婦として評判だった。しかしそれは世間体や打算といった絆によるものだった。つまり内心に愛情はなく、互いに憎み合っていたのである。心の世界がむき出しになる霊界では、真実がそのままあらわになるというわけだ。

 一方の配偶者が先にあの世へ旅立つ。数年か数十年の後にもう一方があとを追うというのが一般的な夫婦の人生というものだ。
 問題は、霊界での再会である。どんな状態で二人は再び会うのか、果たして本当に会えるのか、という問題である。
 清廉潔白で、愛情あふれる夫婦の絆を結んでいるのであれば恐れる必要は何もない。楽しみに臨終の時を待つだけだ。

 違いを超えて一つになる。互いを理解し、認め合うために苦労しなければならないのは、人間としての宿命なのかもしれない。

 愛で一つになれないまま地上で分かれることになったとしたら…。
 これは夫婦に限ったことではない。家族も同様である。

 恐ろしい話だ。人が死を怖がるのはそのことが原因ではないか。まさに愛の審判である。

 分かっているのだ、カオリがいつもあの世から見守ってくれていることは。そしていつの日か連れ合いが永生の世界にやって来る、その一日を待ってくれているということも。

 父子家庭だからといって甘えてはならない。思春期に入る娘と父との関係も、そして課題として残されたあの世の妻との関係も…。

 「パパ! また、うわの空。何考えてるの? ほら、箸止まってるし。食事しないの? おみそ汁、冷めちゃうよ」

 (これはまずい。一瞬、霊界に行ってしまっていたな)

 「おお、そうだな。あのなあ、ナオミ。学校公開、パパ参加するよ。もっと学校のこと知らなきゃな。今どきの6年生の男の子たちのことも知りたいし」

 「パパ、先生や男子に余計なこと言わないでね」

 そうなのだ、全く悪気はないが、いつもナオミが嫌がることをやってしまうのだ。
 ナオミには、父親に対して気に入らないことが毎日増えていることも私は知っている。
 「男子、嫌い」が「パパ、嫌い」にならないことを祈る。思春期は始まったばかり、先が思いやられる。

 私の心の中からカオリの存在が消えることはない。いつも一緒にいる。山に行けば、その声を聞くこともできるのだ。
 あの世とこの世の関係を、通信圏外だと決め付けるのはやめよう。心は肉体を超えてつながっているのだから。

 「パパ、分かってるじゃない」

 カオリがささやいたのか、ナオミがつぶやいた言葉なのかは分からないが、そんな声が私の心に響く。

 私は手帳を開き、土曜日の午前の欄に「学校公開、見学」と書き込んだ。


登場人物

柴野高志(タカシ):カオリの夫、ナオミの父
柴野香里(カオリ):タカシの妻、ナオミの母、ナオミが6歳の時に病死
柴野直実(ナオミ):タカシとカオリの一人娘

柴野哲朗(テツオ):タカシの父、ナオミの祖父
柴野辰子(タツコ):タカシの母、ナオミの祖母
宮田周作(シュウサク):カオリの父、ナオミの祖父、ナオミが14歳の時に病死
宮田志穂(シホ):カオリの母、ナオミの祖母

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 次回もお楽しみに!

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