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信仰と「哲学」134
神と私(18)
何があっても希望は揺るがない

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。

 自然・宇宙(万物)は原理・法則によって運行しています。例外はありません。
 岡潔が数学者の立場で述べたその内容は前回紹介しました。しかし人間はそうなっていません。

 2カ月ほど前、イスラエル・ハマス「戦争」が起こった頃、10歳になる孫娘が「神様がおられるのに、どうして戦争は起こるの? どうしてこんなに人が死んでしまうの?」と聞いてきました。

 「神はこの世界と共にありながらも人間の心を支配できない。それはユダヤ教を信じている人に対してもムスリムに対しても同じ。一番悲しんでいるのは、傷ついているのは神なんだよ」と伝えるのが精いっぱいでした。

 『原理講論』には次のようにあります。
 「被造物が成長期にある場合には、原理自体の主管性、または自律性によって成長するようになっている。したがって、神は原理の主管者としていまし給い、被造物が原理によって成長する結果だけを見るという、間接的な主管をされるので、この期間を神の間接主管圏、または原理結果主管圏と称するのである。
 万物は原理自体の主管性、または自律性により、成長期間(間接主管圏)を経過することによって完成する。けれども、人間は原理自体の主管性や自律性だけでなく、それ自身の責任分担を全うしながら、この期間を経過して完成するように創造された」(79ページ)

 不完全な世界(未完成な世界)に対する神の主管はあくまでも間接的なのです。干渉(神の心と人間の心が一つになるように)することはできないのです。

 人間に関わる「原理の根本」とは何でしょうか。
 統一原理を解明された文鮮明(ムン・ソンミョン)師は、神と人間は「父子の因縁」で結ばれていると言いました。神と人間は親と子の関係だというのです。

 親と子は、心情・愛、生命、血統でつながっている関係であると言い換えることもできます。
 この原理基準にあるとき、神の主管(間接的)が可能なのです。その結果は、自由と平和と統一(調和)の実現です。

 哲学は存在を扱い、宗教は生命に関わる根本問題を扱います。
 希望の哲学は、存在論的立場から人間は神と離れては生きられないようにつくられている、すなわち心と体の関係であると述べてきました。

 離れてはいないにもかかわらず、神と人間が通じないのです。その心が重なり合わないのです。すなわち神を父母として侍ることができないでいるのです。 

 人間の責任分担は、「戒め」を守ることでした。しかし人間始祖はそれを破ってしまったのです。これが堕落です。
 神はアダムとエバに対して「あなたはどこにいるのか」(創世記 第三章9節)と呼びかけていますが、これは神との心情・愛、生命、血統関係が切れてしまったことを意味するのです。
 人間は今、原理基準に立っていません。よって闘争と戦争、犯罪が繰り返されているのです。

 人間始祖アダムとエバが堕落したことの最も重要な意味は、アダムが最初の真の父、エバが最初の真の母になれなかったということです。
 堕落したアダムとエバが、自己中心的な愛と世俗的な愛(地位・名誉・財産、肉欲を優先する性向)の原点になってしまいました。

 イエス様は、神が「後のアダム」・独り子として遣わされた人です。
 原理から見て、「後のエバ」・独り娘も遣わされなければなりません。
 後のアダムとエバが、人類の真の父母の立場で全ての人々を新たに生み変えるためです。すなわち、真の父母から神の心情・愛、生命、血統が出発し、真の父母が神の心情・愛、生命、血統の永遠の原点になるのです。それが希望への出発点です。

 人間は真の父母によって新たに生み変えられてはじめて、原理基準に戻るのです。
 神の間接主管を受けることができるようになり、心情において一体となる(直接主管される)完成圏を目指して歩み始めることができるのです。

 これが希望です。この希望は揺るぎません。その理由は「私は神の内に在り、は私の内に在る」からです。
 目指すべきは、神の涙の色までも知ることができるような人間になることなのです。

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 「信仰と『哲学』」は、今回が最終回です。ご愛読ありがとうございました
 バックナンバーは「目次ページ」でお読みいただけます。ぜひご活用ください。