神様はいつも見ている 34
~小説・K氏の心霊体験記~

徳永 誠

 小説・K氏の心霊体験記「神様はいつも見ている」を毎週土曜日配信(予定)でお届けします。
 世界平和統一家庭連合の教会員、K氏の心霊体験を小説化したものです。一部事実に基づいていますが、フィクションとしてお楽しみください。同小説は、主人公K氏の一人称で描かれています。

第6部 霊界解放の道
1. 霊界と供養

 現代の日本人は、宗教というと、それだけで「非科学的なもの」「無知な大衆がだまされている」というイメージを持っている。
 宗教を信じていることを表明すると、それこそ、うさんくさい人物に見られてしまう。

 実際、日本人の多くは、「何の宗教を信じているか?」と尋ねられると、「私は無宗教です」と答える人が多いという。

 しかし宗教は、時代遅れでも、非科学的でもない。現在の科学の研究やアプローチではまだ解明されていないことが多い分野である、というだけのことなのだ。

 そのことは、幼少の頃から神霊的なものに触れながら感じてきたことだった。
 その私が長年の経験から言えるのは、宗教は人間が幸福になるための方法を教えるものだということだ。

 しかし宗教を信じることで、御利益を得ようとしたり、病気を治すことだけを願ったりしても、かなえられないことが多いのも事実だ。
 それは先祖との関わり、血統的な罪や恨みの霊による障害があるからである。

 要するに、幸福になるためには心身が健康でなければならないのだが、それを妨げている根本的な原因は、多くの場合、霊的な問題が影響しているからだと私は考えている。

 もちろんこのような私の考え方は、私が長年神道を通じて霊界と交流してきたことに由来する。

 ここでは、現世と来世、地上と霊界との関係を知ることがなぜ重要なのかについて、私が感じてきたことを記してみたい。

 人間の人生というものは、生まれてから死ぬまで、長く見積もってもだいたい100年ぐらいのものだろう。
 人は必ず死ぬし、死ねば霊界に行く。
 立派な人であろうが、善人であろうが悪人であろうが、金持ちであろうが貧乏人であろうが、どんな人も、必ず死ぬということに変わりはない。

 しかし霊界に行くまでには、さまざまな人生ドラマがある。幸福な人生を送る者もいれば、悲惨で不幸な人生を歩む者もいる。
 あるいは健康で一生を終える者もいれば、病気で苦しめられる者もいる。成功者もいれば失敗者もいる。運がいい人もいれば、交通事故にたびたび遭うような不運な人もいる。
 とても万民が公平だとは思えない。むしろ世の中、不公平だらけだと言えるのではないか。

 なぜなのだろうか。
 私が神道の信仰を通じて学んだことは、このような現世におけるさまざまな問題は、私たちが生きている現在の時点ではなく、私たちの家系の過去、つまりは先祖たちがどのような人生を送ってきたかが原因になっているということだ。

 私たちの体を構成している肉体の細胞は、先祖のかかった病気になりやすい体質、特定の病気、がんなどの病気の因子をDNA(遺伝子)として受け継いでいて、一定の条件が合致すれば発病しやすくなる。

 それが肉体だけの病気を意味するのであれば、今後医療科学の発展によって、それらの問題は解決されていくだろう。
 だが、そのような体質的な問題としては解決できない病気がある。それが、先祖が犯した罪に起因するものだ。

 先祖によって被害を受けた者は恨みの霊となって、その恨みを晴らすために子孫である私たちに働きかけてくる。
 霊の働きかけによって生じるけがや病気が存在するのだ。
 そのことを、身をもって体験したのが私の父であり、その血筋を受け継いだ私自身なのだ。

 私の父は、九死に一生を得るような大事故に遭って死にかけた。いや、神様の助けがなければ、医者が断言したようにそのまま死んでいたはずだった。

 父の場合は、先祖が犯した罪によって被害を受けた霊が恨みの霊となって子孫に祟(たた)ったケースである。

 そのことを知った幼少の私は、「先祖がやったことで祟るならば先祖に祟ればいいじゃないか。なぜ自分たちに祟るのか!」と、その理不尽さに憤った。
 だが、このような考えは現世では通用するかもしれないが、死んで肉体を失ってしまった霊人たちには通用しない。

 肉体を持っていればこそ、叩かれれば痛みを感じる。肉体を持たない霊人が生きていた時に自分がやられたように仕返しするためには、肉体を持った者を事故に遭わせたり、病気によって苦痛を与えたりするしかないのだ。

 恨む相手が同じ霊人になってしまえば、その怒りや憤りの矛先は、その先祖と同じ血筋の子孫に向けるしかない。
 もちろん全部が全部ではないだろうが、問題の多くは、このような背後の霊的な事情や悪行が原因になって起こることが多い。
 私の父も、先祖が犯した罪を恨んだ霊が引き起こした事故によって死にかけたのである。

 このことは、私の推測ではなく、父に祟っていた恨みの霊自身が語った内容だった。
 だから、人間が今背負っている病気や突然のけが、不運な事故などの原因は、こうした霊障とも言うべき恨みの霊の祟りである場合が多い。

 他の宗教の例は知らないが、わが家で信仰していた神道では、この霊の障りを解決するために、恨みの霊の供養を主とした儀式を行っていた。

 母の所に相談に来たさまざまな問題を抱えた人たちの話を聞き、その霊の恨みを解くために、ひたすら謝るという供養をしていた。
 霊人の恨みが原因の場合、恨みの霊が取りついている人から離れれば、病気などの問題が解決した。

 しかしそのための儀式には、長い期間がかかった。短いケースでも約6カ月間は謝り続けなければならなかった。

 母の教会では、その霊人が生前好物だった食べ物を祭壇にお供えしながら、毎日ひたすら先祖のしたことを「すみません」と謝り続けた。

 毎日、同じことを言い、繰り返した。

  私は母に尋ねたことがある。

 「こんなことで効果があるの? やっても、やっても効果がなかなか現れないよね」

 「そうであっても、これしか方法がないの」

 母は、ほほ笑みながら答えた。

 「テツオはこれに代わる何かいい方法を知っているの?」

 母にそう言われると、何も言うことができなかった。
 ただ、私も姉も母のまねをして、神道の祝詞を唱えるだけだった。

 そのようにして6カ月供養した後、母に入った神道の神様が霊人の恨みが全て解かれているかどうかを調べるのである。
 そして、その恨みがなくなっていることが分かったら、そのことを紙に書き記して、川や海に流すのだった。

 神道では、よく厄払いとして、人型の紙を用意し、その人の穢(けが)れや悪行を紙に記して、神主が特別な祝詞をささげた後、紙を川に流すという儀式を行うが、それと似たようなものと考えていい。

 私の信仰していた神道では、こうすることで恨みの霊との因縁が切れ、その霊は地上世界から霊界へ行くことができると考えていた。
 だからこそ、神道に限らず、基本的に宗教では供養を大事にしている。

 現代人は、今はお墓参りなどあまりしなくなったが、それはこのような死後の世界、霊人たちが行くべき霊界のことを知らないからだ。

 恨みの霊だけでなく、先祖の霊が子孫に祟る場合がある。地上に未練が残っていると、地上で浮遊することになり、自分に近い子孫に取りつくことがある。だから供養をすることが大事なのだ。

 このように、死んだからといって全てが終わるのではない。人間は死後の生、霊人として再び霊界で生きるのだ。

(続く)

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 次回は、「解怨の地、清平」をお届けします。