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脱会説得の宗教的背景 14
福音書は信仰告白の書?

教理研究院院長
太田 朝久

 YouTubeチャンネル「我々の視点」で公開中のシリーズ、「脱会説得の宗教的背景/世界平和を構築する『統一原理』~比較宗教の観点から~」のテキスト版を毎週火曜日配信(予定)でお届けします。
 講師は、世界平和統一家庭連合教理研究院院長の太田朝久(ともひさ)氏です。動画版も併せてご活用ください。

「イエス伝研究」の注目すべき主張
 やがて「イエス伝研究」から注目すべき主張が出てきました。
 イエスの生涯は、初めから十字架にかかるためにあったのではなく、「神の国の到来」を力強く宣言し、神の国を来たらしめようとしていたというのです。

 ギュンター・ボルンカム(19051990)は、「彼の生涯の最後の決定的転機は、来るべき神の国を眼前にして、ユダヤ民衆に彼の使信(メッセージ)を告げるためになされた、弟子たちとともにエルサレムへ上る決意である。この旅路の果てには、十字架上の死がある」(『ナザレのイエス』新教出版社、68ページ)、エルサレム行きは「後の伝承が言うように、イエスはエルサレムで死のうとされただけなのだと理解することはできない。(十字架の)予言は、明らかにイエスの受難の出来事を回想することによって作成されたものである」(同、206ページ)と述べています。

 また、ヴァルター・カスパー(カトリック神学者)は次のように主張します。

 「(福音書は)イエズスがかれの死を予知していたことを表現し、それによってかれが死ななければならないことを自発的に受けとめていたことを強調する。…これらの受難の予告は…事後予言、つまりイエズスの死についての復活後の意味づけであり、イエズスの真正な言葉ではないことが確信されている。…イエズスがかれの死と復活をこれほどはっきりと予告していたなら、弟子たちの逃亡、かれらの失望、復活に対する初期の不信などはまったく不可解である」(『イエズスはキリストである──現代カトリック・キリスト論概説』あかし書房、182183ページ)

 もしイエスの弟子が、十字架や復活以前からその出来事を確信していたなら、イエスの預言どおりの“復活”を目の当たりにした瞬間、「預言は本当だ!」と、すぐ人々にその事実を伝えたことでしょう。

 ところが、最初に編さんされたマルコ伝は“復活のイエスと出会った”場面が省略され、イエスの墓を訪ねた女も、復活を天使から告げられても、「墓から出て逃げ去った。そして、人には何も言わなかった。恐ろしかったからである」(マルコ168)と記しています。

 また、ルカ伝は、弟子が復活をすぐ受け入れなかったのは“心がにぶくなっていた”(ルカ2425)、“心が閉じていた”(ルカ2445)からだと弁明しますが、事実としては「使徒たちには、それ(復活)が愚かな話のように思われて、それを信じなかった」(ルカ2411)と述べています。

 これは、イエスの生前、弟子たちには十字架と復活の意味が明確でなく、福音書が編さんされる過程でその“意味付け”がなされたことを裏付けます。

 結局、十字架と復活が“絶対予定”と強調する福音書ですが、それは“十字架贖罪(しょくざい)”を明確に述べていく必要性から、イエスに関する伝承を集めた福音書記者が、イエスの受難の生涯を弁証的に論証しながら書き上げた“事後預言の書”と言わざるを得ません。

 福音書は、歴史に実在したイエスの生涯を“史実”として著した書物というより、十字架にかかって人類の罪を清算したという“十字架贖罪”を信じる福音書記者が、事後預言的に編集した「信仰告白の書」なのです。

 今日、新約聖書学の捉え方が二極分化しています。“新約聖書は誤りのない絶対的真理”(参考:Ⅱテモテ316)とする福音派は、新約聖書を弁護して“霊感説”を固持します。

 一方、聖書批評学から新約聖書を理性的に見つめ直すリベラル派は、福音書がイエスをメシヤと信じさせるための「信仰告白の書」と考えます。

 古屋安雄氏は、リベラルな教職者は、「イエスは神の子であると信じる」が31%に過ぎないことを紹介しています(『激動するアメリカ教会』ヨルダン社、44ページ)。

(続く)

※動画版「脱会説得の宗教的背景 第4回『リベラル』と『福音派』との和合(新約聖書学)」はこちらから