愛の知恵袋 26
親からの愛の言葉が全ての鍵

(APTF『真の家庭』136号[2月]より)

関西心情教育研究所所長 林 信子

非行少年少女の声なき声が聞こえます
 私の父は明治生まれ、岡山県美作小学校校長の次男坊で北京大学を卒業。昭和7年、満州国建設メンバーで、皇帝の側近となり首都新京(今の長春)に居を構え、その年私が生まれました。当時家には5人くらいの下働きの男女がいました。姉と私と妹二人に一番下の弟が生まれた時は大宴会でした。

 姉は母の手伝いをよくしていたし、弟はお手伝いさんにかしずかれていました。何しろ弟の話題になると、父も母も機嫌が良かったことを覚えています。

 私はいつも姉のおさがりを着て、新しい服を買ってもらった記憶は一度もなく、いつも独りで応接間のソファに寝ころんで、父の書棚の世界名作集を小学生の頃から読んでいました。

 弟が憎たらしくて、お菓子は横取りしたし、弁当箱をひっくり返したりもしたので家中の人が「信子チャンは悪い子」と決めつけていました。

 女子中学校に入学した年、終戦となり、父は戦犯扱いでシベリアに抑留されました。敗戦国の母子は守ってくれる軍隊も警察もなく、着のみ着のまま日本に引き揚げました。母は畑仕事、姉は農協、私は中学校へ通いました。当時は、チャイナ上着と祖父のズボン、祖母の下駄をはき、教科書も弁当も持たせてもらえず、しかし、卑屈にはなりませんでした。

 可哀そうなのは甘えん坊の弟でした。男の子だからと神戸の叔父の家に預けられたので、どんなに淋しかっただろうか。私が京都で大学生となり、弟が高3の時、父が釈放されて帰国。家族がほっとした時、弟が左翼活動をしていて、大学受験を1年のばしたいと言って父に叱られ、家を出て行方不明となり、数日後、宝塚山中で遺体で発見されました。

 母がどのくらい泣いたか、悲しんだか。きちんと葬式を終えた夜中、父が天を仰いで、地をたたいて大声で泣きました。この時、私は親の愛と悲しみの後ろ姿に誓いました。私は親より先には死にません、と。弟も両親の悲しみを知っていたら生命を失うことはなかったろうに・・・。その日から、私の耳に親に逆らう非行の子らの「かまってほしい、愛してほしい」という声が聞こえるようになりました。

関西心情教育研究所の設立
 私が関西心情教育研究所設立を思い立ったのは戦後30年を経た昭和50年でした。

 日本は敗戦と原爆の痛みを乗り越えて、焼け野原に高層ビルを建て、各家庭には白黒テレビが普及しました。物質的繁栄の喜ばしい一方で、核家族化が進み、少子化傾向、男女同権に子供の権利主張等、家長中心の日本の良い伝統や習慣、文化が消えつつあり、大人も子供も金権主義に傾きつつありました。

 戦争放棄宣言をした日本ですが、モラルを失えば自滅の道を行くだけです。

 家族を大切にし心豊かな子育て、世界平和に貢献できる良き日本人になってほしい、それが私の願いでした。

 そして30年後の今日、事態はもっと深刻です。日本は更に技術と文化が進み、世界のどの国より平和で清潔です。しかし、子供達の体力と学力は下がりました。

 メールとインターネットによる睡眠不足。弱い者いじめ、安易な男女交際。子供達の欲望は拡大化しました。その理由は母親が変わったからです。「兄弟姉妹は多いほどよく育つ」と話した年配の男性講師に「子供を産んで何のメリットがあるのですか?」と鋭く質問した若い母親がいたとは最近の話です。

 子供でも大人でも自分の要求が満たされると幸せですね。でも、過分な要求を抑える力を育てるのが、正しい生き方の教育でしょう。

 私の事務所に、子供の相談に来られる親の大半は、万引きするのも、異性と付き合うのも、「友達が悪い」と思っています。不登校や学力低下は「担任教師が悪い」と思っています。

 自分のことは棚に上げ、責任転嫁ばかりしているのです。

 手のつけようもないワルほど、親からの愛の言葉が欲しいと思っているのに・・・。

 全国のお母さん達に言いたい。

 「親の愛が伝われば、万引きも、異性問題も、ひきこもりも解決するのですよ」と。

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-Profile-
■ はやし・のぶこ

 京都女子大学文学部卒業後、岡山で教鞭をとる。マザーテレサとの出会いを契機とし、1975年、関西心情教育研究所を開設。以来、児童相談や母親教育、企業内教育や講演、更には結婚コンサルタントとしても活躍。カセットブック「愛Home伝言板」(全7巻)、ビデオ「愛情革命」、著書「愛の育児バイブル」「みんな子育てに悩んでいる」等多数。