2023.08.27 17:00
真の父母様の孝情を学ぶ 13
長い苦難の末にたどり着いたみ旨の道➁
『ムーンワールド』で連載中のコーナー、「真の父母様の孝情を学ぶ」を隔週日曜日(予定)でお届けします。
韓鶴子(ハン・ハクチャ)総裁(真のお母様)の自叙伝『人類の涙をぬぐう平和の母』からの抜粋をイラストとともにつづるコーナーです。
今回は、「長い苦難の末にたどり着いたみ旨の道」(88〜90ページ)からの抜粋です。
私は、鳳山洞(ポンサンドン)にある大邱(テグ)小学校に入って、勉強を続けました。勉強はできるほうで、友達もたくさんいました。なぜか、大人たちからもかわいがられました。
ある日の午後、母の店の前で一人遊ぶ私を見て、通りすがりの人が足を止めました。キラキラと目が輝く道人でした。母が店から出てきて丁重に挨拶をすると、その人は私を指さして尋ねました。
「あなたのお嬢さんですか?」
母が頷(うなず)くのを見て、彼は言葉を続けました。
「この娘は、十人の息子にも勝るので、しっかり育ててください」
母はたった一人の娘をさらに清く育てなければならないと思い、1954年、済州島(チェヂュド)の西帰浦(ソグィポ)に渡りました。雑然とした大都市を離れ、清らかな自然の中で私を育てるためでした。
母は私に、小学校卒業後、世の中とは関係のない、主のための聖女の道を歩ませようとしました。新孝(シニョ)小学校の五年に転入した私は、遊びたい盛りの年に、過酷とも言えるほどの厳しい信仰生活をすることになりました。祈祷、敬拝、精誠を捧げることに、ほとんどの時間を費やすようになったのです。
母は生食をしながらも、農民が働いている姿を見ると、そのまま通り過ぎることができず、畑に入って仕事を手伝いました。また、道を歩いていて重い荷物を背負っている人を見かければ、家まで担いであげました。そのような母の姿を見て、人々はただただ、感嘆するばかりでした。
母は誰かを助けることを生活の中で常に実践し、信仰者としての模範を示してくれました。
ある日、江原道(カンウォンド)の春川(チュンチョン)勤務の発令を受けた叔父から連絡が来ました。
「済州島の生活を整理して、春川に来てください」
祖母も、「鶴子(ハクチャ)を近くで毎日見るのが、私の人生の唯一の楽しみだ」と言って、本土に来るよう、懇願しました。こうして、母と私は、春川での生活を始めることになったのです。
私は1955年2月、鳳儀(ポンイ)小学校に転校し、ほどなくして6年生になりました。学校には大きなプラタナスの木があったのですが、その木陰で本を読んでいたことが思い出されます。
翌年の1956年、私は鳳儀小学校を第11期生として卒業しました。戦争が起きる中、四つの学校を転々とした末に、受け取った卒業証書でした。学業優秀者として、卒業式の時に優等賞ももらいました。
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次回は、「長い苦難の末にたどり着いたみ旨の道③」をお届けします。