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信仰と「哲学」119
神と私(3)
眉間の傷と恐怖心

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。

 私は、自分に「トラウマ」と言えるものがあると自覚しています。そのトラウマは、幼少の頃に眉間に負った傷が原因であると直感しています。
 この年齢になってもその痕は消えることがありません。

 「トラウマ」というのは、恐怖からの逃避です。当然のことと思われるかもしれませんが、恐怖の実体を見定めることなく回避する方向に思考と行動がすぐ流れるのです。

 重要な問題解決を後回しにする方向に簡単に流れてしまうのですが、恐らくこの「傷」が原因となっているのです。

 これまで一度だけ、母親に(と思う)なぜ自分の眉間に傷があるのかを聞いたことがあります。
 母から聞いた話の内容は次のようなものでした。

 私がまだ小学校に入る前のことで、それは冬でした。私の田舎は新潟県の雪深い所、小千谷です。
 その年は例年よりも雪深く、事件が起きたその日は、家の近くで2歳上の兄と一緒に、体に合わない重いシャベルのようなもので「雪かき」をやっていたのです。

 その時、兄がシャベルで雪をすくいながら、そのシャベルを思いっ切り横に振り回したのですが、運悪く近くにいた私の顔に当たってしまったのです。当たった場所が眉間だったのです。

 事件の前後のことは全く記憶に残っていません。「飛んでしまっている」のです。
 ただ記憶に残っているのは血に染まった雪の映像です。
 大騒動になり、病院に連れていかれて治療を受け、とにかく失明しなくて良かったということになったようなのです。

 この出来事が、「恐怖」の本質を直視し挑戦するのではなく、そこから逃げようとする反応へと無条件的に思考や行動が連鎖する要因となっているのではと、ずっと思わされてきました。

 そしてこの点が、私が生きていく上で、大きな内的障害となっていることを感じてきました。
 真理を求め、善い生き方をするためには、「恐怖」を直視し、それを超える生き方こそ必須要件であると言えるからです。

 これまで述べてきたように、真の哲学者、信仰者は恐怖と対峙(たいじ)しそれを克服してきたのであり、例外はありませんでした。