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愛の勝利者ヤコブ 8

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「愛の勝利者ヤコブ」を毎週月曜日配信(予定)でお届けします。
 どの聖書物語作者も解明し得なかったヤコブの生涯が、著者の豊かな聖書知識と想像力で、現代にも通じる人生の勝利パターンとしてリアルに再現されました。(一部、編集部が加筆・修正)

野村 健二・著

(光言社・刊『愛の勝利者ヤコブ-神の祝福と約束の成就-』より)

天地の祝福と献祭②

 さて、地がまず認め、しかるのちに天がそれを追認するというのが、だれしもが納得のできる自然の順序であろう。「これらの事の後、主(神)の言葉が幻のうちにアブラムに臨んだ」(創世記151)と、聖書にもそのあたりの事情が明確に記されている。

 アブラムよ恐れてはならない、
 わたしはあなたの盾である。
 あなたの受ける報いは、
 はなはだ大きいであろう(創世記151

 アブラム(のちのアブラハム)の妻サライは産まず女であり、いまだに自分の子に恵まれないところから不審に思ったアブラムは、「自分には子が授からないので、わたしの家に生まれたしもべ、ダマスコのエリエゼルが家を継ぐほかはありません。そのほかに一体どんな恵みを下さろうというのです」と少々恨めし気に神に問いかけた。

 すると神は、「もちろんお前の身から出た者がそのあと継ぎとなるのだ」と言われ、アブラムを戸外へと誘われた。

 「天を仰いで、星がいくつあるか数えられると思うなら数えてみよ。どうだ。……お前の子孫はあのように無数に生み殖えるのだぞ」

 アブラムは、神のいわれることが具体的にどのような意味なのかよく分からなかった。しかし、分からないなりに、

 「そうですか」

 と子供のように純真に答え、神のいわれることをそのまま信じた。神はアブラムのその様子を見て、自分の思ったとおりの男だ。この男なら自分の願いどおりのことをやってのけるだろうと頼もしく思われた。「主はこれを彼の義と認められた」(創世記156)と聖書にはある。

 「アブラムよ、お前はウルで生まれ、父に連れられてカナンへと向かい、その途中のハランの地でお前の父は亡くなった。お前の父テラは、自分でも意識せぬまま、われ知らず衝動に駆られてそうしたのだ。しかし、それはわたしが導いてそういう気を起こさせたのだぞ。その時からわたしはお前にカナンの地を与え、これを継がせたうえで大きな使命を果たさせようと、ひそかに計画をめぐらしていたのだ」

 「主なる神よ、わたしがこの地を継ぐ者になることがどうしたら分かりますか」

 神はその問いには答えられず、さりげなく何の説明もなしに、ただ次のように命令された。

 「三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山ばとと、家ばとのひなとをわたしの所に連れてきなさい」(創世記159

 そうしてそれを自分の前に供えよと命じられたのである。これは、一見ちょっとした慰みごとでもなさるかのような軽い調子の命令であった。しかし、神はここでアブラムに、天地のすべてを賭(か)けるような大博打(ばくち)を打とうとしておられたのである。

 この献祭(象徴献祭と「統一原理」では呼ぶ〈*2〉)の驚くべき秘義を解き明かしたのは『原理講論』だけである。あとは、ほとんどの物語作者がこの象徴献祭の行事には触れていない。聖書の記述自体がきわめてさり気ないからでもあろう。数千年にわたってこの箇所は、最高の頭脳の持ち主をも含めて、それこそ何千億という人々の目の前に公然とさらされ続けてきたのに、全くの盲点──それこそ「白昼の死角」となって見逃されているのである。


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注:
(2)『原理講論』31826頁参照

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 次回は、「天地の祝福と献祭③」をお届けします。