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信仰と「哲学」97
希望の哲学(11)
「懺悔」という自己否定

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 人間が神とつながり、良心の力をもって光り輝くための普遍的な道があります。
 それは自分を無にすること、無になることであり、神の前に絶対的対象の立場に立つことです。

 その道にはどのように至るのでしょうか。
 時に大病を患ったり、左遷や獄中生活の中で徹底した自己否定を経て、その道に足を踏み入れることがあります。
 このような体験をした者全てが神とつながれるというわけではありませんが、神とつながった経験を持った人たちは皆同様に、自己否定や深刻な心的葛藤を超えたところにその道が開かれています。

 私にとって師である周藤健先生もそのお一人です。
 先生は、神とつながった契機として「懺悔(ざんげ)」を強調しています。大病を患い、1週間も涙を流し続け、枕がびしょぬれになったという体験を先生から幾度もお聞きしました。
 その一端を紹介してみます。

▲周藤健氏(動画『周藤健先生自叙伝 真の父母様と共に歩んだ人生』より)

 周藤先生は大学生時代、宗教に反発する無神論者でした。クリスチャンの友人との論争も絶えなかったようです。
 大学2年を終えて専門学部に入ろうとする時期、重いインフルエンザに罹患(りかん)してしまいます。診察の結果、入院するか実家での長期療養を勧められ、先生は後者を選び休学して帰郷しました。

 療養中の周藤先生の所に見舞いに来られた二人の婦人が、人間にとっていかに信仰が必要であるかを話していったそうです。
 そんなある日、周藤先生は毎日新聞の広告欄を通して生長の家の谷口雅春先生の『生命の実相』を目にします。そして先生は関連する本を取り寄せ、読んでみたのです。

 内容は信仰による奇跡の証し集でした。1度目は半信半疑。せめてもう1度読んでみようと思って読んでみたところ、何か違うものを感じたといいます。

 証しをしているこの人たちは何者なのか。うそを言っているのか。しかしこの人たちはうそを言うような人たちではない。とすればこの体験は真実だ。

 そして、はっと一つのことに気付いたというのです。この奇跡的な癒やしの現象、神による癒やしの前には必ず「懺悔」があると…。

 自分の人生の懺悔、人間関係の懺悔、その他の罪を犯した悪事に対する懺悔、真剣に懺悔しなければならない世界がある。
 自分にもこの人たち以上の懺悔すべきものがある、自分の中の汚いもの、醜いもの、汚れているもの、いやらしいものがあることに気付いたといいます。

 闘病中のある夏のこと、周藤先生は自分自身の醜さに耐え切れなくなり痛哭(つうこく)しました。
 涙にぬれた1週間を過ごし、1週間が過ぎた頃、何かを感じ始めます。
 そして気が付くと、この世界には、清い、尊い、慈悲に満ちた愛に満ちた偉大なる崇高なる存在がおられるのではないかとの思いに至り、一人で布団の上に座り、生まれて初めて手を合わせたのです。

 その次の瞬間、バケツ一杯の冷水をかけられたような感覚、さらにその次の瞬間には、白金色の光が差してきて全身を覆いました。そして直径3センチほどの真っ赤な火の柱が脳天から全身を貫くという体験をしたのです。

 周藤先生は茫然(ぼうぜん)とし、何が起こったのか分からない状態が数分間続いたといいます。
 その後、何かおかしいと感じて背中に手を伸ばしてみると自分の腎臓が小刻みに震えていたそうです。その時の感触を今も覚えていると証言しています。

 そうして周藤先生は神様を受け入れるようになりました。神様につながったのです。
 病気は治っていました。

 周藤先生は、懺悔という徹底的な自己否定を経て神の前に絶対的な対象として立ちました。その瞬間、神と響き合ったのです。
 神の力が身体を貫き、癒やしの奇跡と同時に、神にかき抱かれるという体験をされたのです。