愛の知恵袋 160
感染症治療に命を捧げた日本人(上)

(APTF『真の家庭』281号[20223月]より)

松本 雄司(家庭問題トータルカウンセラー)

オリンピックの陰で猛威を振るう感染症

 2022年24日の夜。テレビは華やかに北京冬季オリンピックの開会式を報じている。同じころ、厚労省ではきょう1日の新型コロナ感染者数を発表していた。

 世界中でオミクロン株が猛威を振るい、日本では第6派の感染が激増している。

 きょう1日の感染者数は東京都が19798人(累計654281人)。全国では95453人(累計3123886人)。死者は103人(累計1万9173人)。

 日本で感染が始まってからすでに丸2年。いまだに、明確な出口は見えていない。

 その影響は直接・間接に全産業におよび、日常生活にも深刻な支障をきたしている。

 必死の治療を続ける医療従事者の方々のご苦労はいかばかりかと思う。

 祈るような思いで、1日も早い終息を願うのみである。

 こんな時、ある人物のことが思い出される。それは、第2次大戦直後のドイツで、蔓延した恐ろしい伝染病から人々を救うため一身を捧げた日本人医師のことである。

熱い志を抱いてドイツに留学

 肥沼信次(こえぬまのぶつぐ)博士は1908(明治41)年、東京都の八王子市中町で、外科医の父・肥沼梅三郎と母・ハツの間に4人兄妹の次男として生まれた。

 父の期待に応えたいと猛勉強し、1929(昭和4)年日本医科大学に入学。卒業後、東京帝国大学の放射線医学教室に入局。アインシュタインを尊敬していた彼はドイツで最新医学を究めたいと思い、1937(昭和12)年に29歳でドイツに渡り、ベルリン大学(現フンボルト大学)医学部放射線研究室の客員研究員として入所した。

 将来、放射線でがん患者を救いたいという一念で研究に没頭し、多くの論文を書き、1944年にはベルリン大学医学部で東洋人初の教授資格を取得した。

 折しも世界は激動の時代に入り、1939(昭和14)年、ヒトラーがポーランド侵攻を命令し第2次大戦に突入した。多くの医療関係者が戦争に駆り出されていったが、やがて、ナチスの思想統制が大学界にまで及び、ベルリン大学でもナチズムに同調しない数百人の学者や職員が公職追放された。

 1944(昭和19)年2月。ついに肥沼にもナチスへの忠誠宣誓書の提出命令が来た。

 その時、彼は宣誓書にこう書いて提出したという。「私はドイツ職業組合に所属せず、純潔な日本人であり、日本国籍を有する」。幸いナチスはそれ以上の追及はしてこなかったので難は逃れたが、彼の気骨をうかがい知る出来事である。

 1945(昭和20)年1月、ベルリンは連合軍の大空襲を受け市街は廃墟と化し、ベルリン大学も破壊された。同年3月、ドイツ敗戦を予見した日本大使館は在独日本人に帰国命令を出した。約300人の日本人はチェコスロバキア経由で脱出し日本に帰国した。しかし、なぜか、帰国者の中に肥沼の姿はなかったのである。

 その時以来、日本の家族は信次の消息を知ることができなくなった。

運命の街、ヴリーツェンへ入る

 一方、ドイツに残って研究を続ける決意をした肥沼であるが、当時、肥沼を助けていた人にシュナイダー夫人という人がいた。軍人の夫を亡くした未亡人で5歳の女の子を抱えていた。彼女が妹の住む町に疎開するというので、肥沼も同行することにして、一緒にポーランド国境近くの街、エーベルスヴァルデに疎開した。

 その後、3人は隣町のヴリーツェンにアパートを借り、その一室を診療所として診療活動を始めた。折しもヴリーツェン市では発疹チフスが蔓延していた。もともと人口5000人ほどの街ヴリーツェンは市街地の9割が灰燼(かいじん)に帰し、そこにポーランドから追放されたドイツ兵や難民や被災民が押し寄せて人口が膨れ上がり、下水道も破壊され不衛生な上に、食料もなく飢餓に陥り伝染病が一気に広がったのである。

 ヴリーツェンを制圧し統制下においたソ連軍は、市内に伝染病医療センターを設けて患者を隔離した。ある日、肥沼の家にソ連軍の司令官が来て、センター所長を担当するように命じられた。「私は伝染病の専門医ではありません」と言って辞退したが、「ここにはもう他に医者がいないのです!」と強く要請され、引き受けた。

 しかし、医師は肥沼1人、助手1人、看護婦7人、調理職員3人だけであった。

 病院には患者が溢れ、ベッドも足りず床や廊下にまで寝かされていた。患者は排便や吐しゃ物の悪臭の中でもだえ苦しんでいた。薬や消毒液など医療用品が不足し、そのうえ食糧もなく飢えにさらされたため、彼らは次々に死んでいった。

 治療を始めてまもなく、7人の看護婦の内5人が発疹チフスに感染して死亡した。

 当時17歳だった看護婦ヨハンナ・フィドラーさんは、「新たに加わった看護婦達は自分も感染するのではと心配していましたが、肥沼先生は何も恐れず、どんな患者に対しても優しく接し、励ましの声をかけていました」と回顧している。(以下次号へ)

(参考文献:舘澤貢次著「大戦秘史リーツェンの桜」ぱる出版、国際留学生協会編・向学新聞)

オリジナルサイトで読む