信仰と「哲学」95
希望の哲学(9)
神を感じて善を目指す

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 希望の哲学は、まず足場をしっかり固めることができる哲学でなければなりません。
 そして次のステップとして、人間を善に向かわせることができなければならないのです。
 第一原因である神は当然、善の根本でもあることが大前提です。

 人間が善に向かうということは、まず心が動きださなければなりません。
 心に善に向かおうとする動機、衝動が起こらなければならないのです。それが強ければ強いほど体が一つになって動じ静ずることができます。

 心の中に生ずる衝動は、あたかも電球に光がともるがごとくであり、結果として電球としての存在目的である周囲を明るく照らすこととなり、電球の価値が決定されるのです。

 電球に光がともるためには、まず電源とつながらなければなりません。
 電球が人間であるとすれば、電源は神です。そして電流が神の心情であり、光は真の愛です。

 ここで、どのようにしたら人間は神につながることができるのかが問題となります。 
 一番重要な点ですが、そのことについて考えてみたいと思います。そこには普遍的な原則があることが分かります。

 いくつかの実際あったエピソードを紹介してみたいと思います。
 神という表現は出てきませんが、理屈を超えた実体験であり、隠れた神体験なのです。

 最初に、今年21日に亡くなられた石原慎太郎氏(作家、政治家、元東京都知事)の体験談です。
 ビジネス総合誌「プレジデント」(2020717日号)に掲載されていました。

 「この病(7年前の脳梗塞)は私に、人生で初めてといっていいほどの巨大な喪失感をもたらしました。大病をすると、おのれの死期が近づいていることをいやでも自覚しないわけにはいきません。するとそのことによって、ものの見方や考え方にも変化が生じるものです。日常茶飯に思っていたものが非常に新鮮に見えるようになり、たとえば廊下を這(は)っている小さな虫をスリッパで踏みつぶそうとも思わなくなりました。かろうじて生きている者同士としての共感があるのでしょう」

 ここに神という言葉は出てきませんが、「ものの見方や考え方にも変化が生じる」とあり、それは「廊下を這っている小さな虫をスリッパで踏みつぶそうとも思わなく」なるという変化であったと語っています。

 言い換えれば「良心」の力による変化なのです。
 すでに述べたように良心の力は人間のうちに宿る善の主体である神の存在との関わり抜きには説明できません。

 石原氏の心のうちに起こった変化は「大病により死期を自覚すること」でした。それは自分自身を「無」にすることであり、結果として神の前に自分を否定して絶対的対象の立場に立たせることになったのです。

 人間が神とつながり良心の力をもって光り輝くための普遍的な道は、神の前に自分を無にすることであり、絶対的対象の立場に立たせることによって開かれるのです。

 次回は、武者小路実篤の体験を紹介します。