2022.01.25 22:00
神様はいつも見ている 14
~小説・K氏の心霊体験記~
徳永 誠
小説・K氏の心霊体験記「神様はいつも見ている」をお届けします(毎週火曜日22時配信予定)。
世界平和統一家庭連合の教会員、K氏の心霊体験を小説化したものです。一部事実に基づいていますが、フィクションとしてお楽しみください。同小説は、主人公K氏の一人称で描かれています。
第2部 姉が統一教会へ
1. 神と共に生活する
「神様、いつも見てるで。いつも共にいるで」
この言葉は私の脳裏に焼き付き、私の心の底に種となってまかれた。
「そうか、神様っているんやな。神様はいつも見てるんやな」
いつも見ているというなら、学校へ通う途中でも見ているはずだ。私は時折ふっと後ろを振り返っては神様の気配を感じ取ろうとした。けれどどこにも神様の姿は見つからなかった。それでも、「神様は見ているんだ」という気持ちは日に日に強くなっていった。
深夜のことだった。話し声で目が覚めた。何やら隣の部屋から人の声が聞こえてくる。
「今日は遅くまでお勤めしてるんやな」と、寝ぼけ眼でふすまを開けてみるが、そこには誰もいなかった。
「あれ? おかしいな」と思ってふすまを閉めると、また声が聞こえてくる。再びふすまを開けてみるが誰もいない。
そんなことを何度も繰り返した。
誰もいないのに声だけが聞こえる。そのうちに、時々その姿が見えるようになった。
最初はぼんやりした形だったが、やがて、それが人間の形をしていること、生きている人間と変わらない姿をしていることが分かってきた。
見えると言っても、肉眼に映し出された像のような質感はなかった。ある存在を感覚的にキャッチしているという感じだった。
しかし姉には霊的な存在がはっきりと見えていた。いわゆる「霊眼」が開けていたのだ。
夜中に声だけ聞こえていたのは、霊人たちの会話だったのだ。姿が見えるようになると、徐々にその異様さにも慣れていった。
霊が見えるようになると、なぜこの世のほかに霊人たちが住む世界が存在するのか、霊界はどんな仕組みで成り立っているのかといったことが気になり始めた。
母に乗り移る“神々”はいったい何者なのか、霊なのか、それとも別な存在なのか、例えば宇宙人のような…。私は次々と疑問にとらわれた。
霊界について姉とよく話し合った。姉に尋ねても姉も説明はできなかった。
「あの世ってどんな所なんだろう?」
「この世とどう違うのかな?」
「霊たちも僕たちと同じように食べたり飲んだりするのかな?」
そんな会話を交わしていたことを思い出す。
二人で話し合ったところで結論が出るわけもない。
いつも最後は、「それなら、先に死んだ方が、霊界がどうなっているのか、知らせに来ようね」などと語り合ったものだ。
まだ幼い二人の約束事だったが、もし傍(はた)で話を聞いている人がいたなら、かなり異様な小学生たちの姿に映っていたことだろう。
私たち姉弟は、知らず知らずのうちに、霊界や神様のお勤めに巻き込まれていった。
母が神懸かりになったように、基本的には女性が神様のお勤めをし、男性は生活面の補助をするものだと私は思っていた。
第一、神様のお勤めだけでは生活ができない。
母親を慕って信者さんが多くなっていたとはいっても、それだけでは生活を支える収入には到底至らなかった。
私は母の後継者は霊感の強い姉がなるだろうと漠然と考えていた。
ある日のこと、姉と私に、霊界から特別な使命が与えられた。
「あなたたち二人は特別に神様をお祀(まつ)りしなさい」
霊的な素質のある姉だけならば分かるが、なぜ私も、なのか。それに長男の兄もいるではないか。
そんな疑問も持ったけれど、抵抗する気にはならなかった。
神様はすでに私の身近な存在となっていた。神様の言うことは間違いないと思うようになっていたのである。
神様を祀る祭壇は、教会と家にそれぞれ設置されていたが、それとは別に二人の祭壇を設置してお祀りしなさい、という指示であった。
要するに、祭壇にそれぞれの守護神に当たるような神を祀り、お勤めをするということである。
神様を祭壇に祀るとはどういうことか。
毎朝起きたら、神様にお参りし、まず神棚に水とお酒を供え、食事も供える。
これが基本である。
神様を祀るとは、同時に祖父や祖母、先祖にお仕えするということだった。
生きた人間のように神様に仕えてお世話する、神様の食事の支度をするということになる。
私の守り神は、金剛龍王大神。名前から分かるように、龍の神であり、卵を好む神様なので、毎日、卵を供えた。
神様は見えないので、供えても食べたかどうかは分からない。
ただ、私はお供えした後、何か清い霊のようなものがお供え物に触れて喜んでいるような気配を感じていた。
人間は朝食を終えたら、片付けをするが、それと同じように、朝、神棚に供えたものを昼頃に下げ、それを神様からのおさがりとしていただくのである。
朝だけではなく、夜も同じようなことをした。
それだけではなく、何か買い物をしたら、買ったものを全てまずお供えし、その後にいただくという生活をすることになった。
神様と共に生活するということはそういうことだった。
(続く)
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次回は、「変貌した姉」をお届けします。