2022.01.07 12:00
信仰は火と燃えて 13
寂しかった神様
アプリで読む光言社書籍シリーズ、「信仰は火と燃えて」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
教会員に「松本ママ」と慕われ、烈火のような信仰を貫いた松本道子さん(1916~2003)の、命を懸けてみ旨の道を歩まれた熱き生きざまがつづられた奮戦記です。
松本 道子・著
寂しかった神様
名古屋開拓の時は、いろいろな出来事を通してイエス様の心情を知らされ、イエス様を思って涙することが多かったのですが、大阪では、何かにつけて神様の愛を実感する日々でした。
クリスチャンセンターで山路さんと会ってからというもの、彼女を通して多くのクリスチャンたちに「統一原理」を伝えたい心情でいっぱいでした。ですから、朝の5時半には起き出して、朝拝を済ませ、それから一日のスケジュールを組んで一人一人に指図をし、7時には教会を出て、神戸の山路さんの家へと向かいました。
ちょうど冬にさしかかっていて、早朝は冷え冷えとしています。そうしたある朝のこと、阪急の駅の構内に入った瞬間、軽やかな元気のあるメロディーが、電車から降りたった群衆に向かって流れてくるではありませんか。そして、「皆さん、きょうも一日頑張ってください」という温かい言葉が衿(えり)を立てて職場に急ぐ人々を激励していました。
人々はその言葉に力を得て、元気良く東西南北に消えていきます。その光景を見ていると、まるで親が子供を激励しているように思いました。すると、天のお父様の声なき声が「お前もきょう一日元気で頑張れよ」と励ましてくれるのが実感として感じられるのでした。
また、たくさんの人を乗せて走っている電車が物言う人間のように見えました。しかも、人間は自由意志をもって勝手なことをするけれども、電車は、素直に従順に、自分のやるべき責任を間違いなく果たしているのです。レールの上を走っているその姿を、何と原理原則にかなっているのかと、私は不思議な感を抱きながら見ていました。
すると、電車がとてもかわいく思えてきて、物も大切にして愛してあげなければいけないなあ、という気持ちが起こってくるのです。そんなことを考えながら電車を見ていると、今度は自分の責任分担を失った惨めな人間のことが思われてくるのでした。
神様は、人間には人間だけのルールを与えたのに、どうしてそれを失ってしまったんだろう、そういう思いが脳裏をかすめた時、「天のお父様、まことに申し訳ありません。遅ればせながら私は今、一人の命を救うために神戸に向かいます。どうか山路姉を立たしめ、この一人の姉妹を通じて、その背後にいる多くのクリスチャンに『統一原理』を伝えることができますように」と祈っていました。そう祈りつつ、毎朝同じ道を通ったのです。
山路さんはとても行動力のある人で、原理を聴いて感動すると、自分の行っているナザレン教会の牧師を連れて来たり、方々に出掛けて行っては人々に証(あかし)していました。また時には、待ち合わせをして一緒に伝道に行くこともありました。
ある日のこと、それはどんよりと曇った日でした。大阪と神戸の間の支線の小さな駅で、山路さんと会う約束をしていました。午後3時半の約束でしたが、四時になっても彼女は姿を見せません。それでも1時間ぐらいは待ってみようと思い、道行く人を眺めながら忍耐強く待っていました。5時近くには空はもう今にも降り出しそうな雲行きになってきました。どうしたものかと少々困っていると、頭の上でピーピーという小鳥の鳴き声が聞こえてきます。目を上げると、軒下につばめの巣が見え、お母さんつばめが虫をくわえてきて、ひなの口に入れているところでした。そのほほえましい光景を、私は不思議な面持ちで眺めていました。
そこへ電車が到着して、仕事から帰って来た人々を降ろすと、パラつく雨に備えて傘を持って迎えに来た人々が、「あなた」「お父さん」と声をかけて、仲むつまじく歩いて行きました。その後ろから、犬の親子がとことことついて行くのです。その光景を見ていると、なんて美しいのだろうと激しい感動が込み上げてきて胸が熱くなり、今にも涙があふれそうでした。その感情を抑えるために足元に目を落とすと、何とその足元を黒いアリの群れが、列を作ってぞろぞろとはって行くではありませんか。
ああ、なんと不思議なことだろうか。雨が降りそうになると、誰も教えないのに、命あるものたちはそれぞれ自分の家へと急ぎ、つばめはせっせと餌(えさ)を運んでひなに食べさせている。人間たちも、これから夕食を囲んで一家だんらんのひとときをもつのだろう。そのような愛の営みをいったい誰が教えたのだろう。その光景を見ながら、ふとそんなことを考えていました。
生きているものは、みんな愛し合っています。誰も教えなくても本能的に知っているのです。けれども、その愛をつくった源を知らないでいるのです。では、その愛の法則の源なるお方を、いったい誰が愛してあげるのでしょうか。そんなことを思っていると、急に声を張り上げて泣きたい心情にかられたのです。そして、「天のお父様、みんな自分たちだけ愛し合って、親であるあなたの愛を誰も知らずにいますね。お父様、寂しいでしょうね」と心の中で叫ぶと、空の彼方が泣き出しそうになって、「寂しかったよ」という声が、私の全身に響いてきました。私は天のお父様がかわいそうで、「天のお父様!」と叫びつつ、はらはらと涙を流して、しばらく泣いていました。
その日はついに山路さんは来ませんでした。しかし、私はその小さな駅で、あらゆるものに注がれる神様の愛をかいま見、神様の心情の一端にふれて一日中泣きました。そして、そういう神様の愛を実感すればするほど、“神様のためにもっとやらなければ”という思いが、私の全身にみなぎってきたのです。
一生懸命に伝道しながら、神の愛を実感し、研究し、日中はひねもす夜は夜もすがら、立っても座ってもただ一筋に神様のことばかり思い続けていると、見るもの聞くものすべてが不思議に思えてきます。花を見ても涙が流れ、木に生(な)っているリンゴを見ても驚きました。
どうしてあんな木に、赤い丸いリンゴが生るのだろうか。どうして黒い土の中から、白い大根が出てくるのだろうか。どうしてバナナもみかんもりんごも、みんな味が違うのだろうか。あのような味つけは誰がしたんだろう。自然はなんて不思議なんだろう。
自然を見て、神様がいないなんてどうしていえるでしょうか。とんでもない話です。私たちは、あらゆる方面から論を進めていっても、絶対に神様を否定することはできないでしょう。私たちの周りにあるすべての被造物、自然の中に、神の神性と力がみなぎっていることは間違いない事実なのです。
こうして自然を通して神様の愛を実感すればするほど、私たち人間が神様の愛を裏切って堕落し、神様を悲しませてきたことが思い起こされてきて胸をしめつけられるようでした。考えれば考えるほど神様がかわいそうで気が狂いそうになり、絶叫したくなってしまうのでした。
こうして大阪での開拓中は、神様の悲しい心情を思い、毎日涙で祈る日が続きました。泣かない日はなく、祈らない日はなかったのです。“父の神の庭の中で……”という、自然の中に現れる神様の愛の歌を歌うとき、関西大学と梅田駅の間を通いつつ涙した大阪の時代を思い出します。
また、こんなこともありました。山路さんが講義を聴き始めた時、彼女が通っていたナザレン教会の牧師も一緒に講義を聴きに来ていました。その牧師が、ある時、星が空中でパーッと散り、その中の一番大きい星が落ちるという夢を見たのです。
私はその話を聞いた時、「その大きい星はあなたです。散ったのはあなたの教会の信者です。あなたは『統一原理』を聴いて、最後までやっていけばその夢は変わるでしょう。しかし、あなたは必ず落ちるでしょう。落ちるということは、空中で輝かないでつまずくかもしれないということです。ですから、あなたは真剣に祈ってこれを聴いてください。祈って、様々の困難を越えることができれば、あなたは散らずに空中で輝くでしょう」と予言をしました。
牧師はその話に恐れを抱きながらも、ずっと講義を聴き続けました。そして、彼の教会の信者全員が「統一原理」を聴くようになったのです。中には、天から啓示を受けたといって、40日間の断食をする人まで出てきました。
しかし、その牧師は、ナザレン教会本部の迫害や、その他様々の試練に耐えることができず、教会の信者もろともに去っていきました。彼が最初に夢で見た予言どおりになってしまったのです。この時残ったのは、山路さんと小山さんという2人の婦人だけでした。
私は初めに、「どんなにつらいことがあっても乗り越えていかなければいけません」と忠告しました。「私の忠告を守らなければ、あなたは落ちていくでしょう」と予言したのです。ということは、忠告を守って、自分の意志によって乗り越えられる可能性もあったということです。私たちはみんな堕落したのですから、絶対だめだといったら、本当にだめになってしまいます。しかし、堕落した人間であっても、絶対できると信じて希望をもっていけば何でもできるのです。希望は神、だめだ、だめだと思わせるのはサタンです。
どんなに難しいことでも、やればできると信じていけば奇跡が起こるのです。その信仰が問題なのであって、自分の尺度で計ったりしては絶対にいけないのです。神様の力によってできないことはないと信じてやるのです。知恵と努力と信仰をもってすれば何でもできるという信念、これは大阪時代に私が体験として得たものでした。
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次回は、「羊どろぼう」をお届けします。