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新・熱き祈祷のすすめ 46

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「新・熱き祈祷のすすめ」を毎週月曜日配信(予定)でお届けします。
 祈りの必要性や祈りの種類、実践方法をまとめた祈祷の手引書です。

松本 雄司・著

(光言社・刊『新・熱き祈祷のすすめ』より)

第七章 深い祈り

3 神の痛みを解放するために(3)

 神が愛であることは、2千年前からイエス様を通して明らかにされています。しかし、もっと深い神の心情、痛みを解き明かしてくださったのは、文(ムン)先生が初めてでした。

 3人の子供がいて、上の2人は健康だが末っ子は重度の心身障害児だという家庭がありました。親にとって、上の2人の子供が、ハイハイを始め、立って歩くようになり、小学校、中学校、高校へと、成長していくすべてのことは、うれしく、楽しい、刺激です。それは愛することのうれしさに満ちた、喜びの愛なのです。そして、3番目の子供を愛する時は、その子にはほかの子以上に心情がいきます。1歩でも半歩でも良くすることができるなら、どんな犠牲をも惜しまないでしょう。それゆえに、より以上に愛するのです。

 愛される側から見れば、どれも同じ愛です。しかしながら、愛する側から見た場合には、全く違うのです。2人の健全な子を愛する場合は、愛すればそこに刺激があり、希望があり、喜びがあり、楽しみがあり、力がわいてきます。それは喜びの愛であり、楽しみの愛であり、刺激の愛であり、希望の愛です。しかし、3番目の子を愛する時には、どんなに愛情を注いだとしても、喜びよりも痛みを感じるのです。愛すれども悲しく、愛すれども悔しく、愛すれども痛い、どこにぶつけていいか分からない、どうしようもない痛みと、悲しみと、義憤を伴う愛なのです。

 神の愛が深ければ深いほど、その痛みも大きいのです。神の子とは似ても似つかぬ姿になっている人類を6千年間見続け、今なお、だまし合い、殺し合い、憎み合っている姿を見る親なる神は、気も狂わんばかりの心情なのです。その神の事情、心情を知った時にこそ、なぜかくまで急いで人類救済をしなければならないのかということが、初めて実感として、情感として分かってくるのです。

 歴史上には、多くの理想世界建設の運動や社会変革の運動がありました。しかし、それらと文先生がなさろうとしていることとは、動機において根本的な違いがあります。人間が不幸であってはならず、幸せにならなければならないから理想世界をつくる、というのが今までの運動の根拠でした。しかし、それでは、なぜ私たちは幸せにならなければならないのでしょうか。なぜ理想世界を築き、地上天国、天上天国を築かなければならないのでしょうか。それは、そうしなければ神の痛みが終わらないからなのです。恐ろしいばかりの痛みから神を解放して、本来の創造理想である神と人とが共に喜ぶ世界を実現するためなのです。私たちは親である神のために、このみ旨の道を全うしていかなければなりません。

 私たちがみ旨の道を歩むに当たって、まず決意しなければならないことは、我を忘れて人を救うことは当然ですが、自分も最後まで歩み抜いて必ず天国までたどり着かなければならないということです。どんなに弱く足りない自分であったとしても、はいずってでも、引きずってでも何とか自分を最後まで引っ張っていって、天国人の1人にならなければならないのです。自分を神の喜びの対象にしない限り、神の悲しみは終わりません。天国ができ、すべての人が救われたとしても、神の子女が1人でも、地獄の底で苦しみもがいている限り、親の悲しみ、痛みは終わりません。そのように見た時、天宙復帰とは恐ろしいほど厳かなものです。

 私たちは天宙復帰を決意して、このみ旨の道に来ました。神に喜びを返すために、神の愛に報いるために、本来の親と子の関係を回復するために、この道を歩む決意をしたわけです。まさしく天宙復帰とは、最後の一人まで、地上のすべての人を神の元に帰し、霊界のすべての人を帰すまでは、終わらないのです。そのために生涯をかけておられる真の父母様です。私たちもまた、真の父母様に従って、神の痛みの解放のために、その心情の万分の一でも知って、祈りながら歩んでまいりましょう。

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 次回は、「私が祈祷と取り組んだ理由(1)」をお届けします。


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