2021.12.29 17:00
中和新聞セレクト Vol.3
生活信仰のすすめ
毎週2回(火、金)、さまざまなコンテンツを配信している『中和新聞』。Blessed Life編集部が同記事のアーカイブスからおすすめのコンテンツをセレクトして皆さまに紹介します!
第3弾は「生活信仰のすすめ」(家庭カウンセラー:内田由喜氏)のシリーズを毎週水曜日(予定)にお届けします。
同コンテンツは『中和新聞』2020年4月から連載中のシリーズです。
第4回 み言と訓読生活の必要性〈前〉
本シリーズでは、信仰の基本的な在り方や実践について考えます。日々、神様を感じる生活をすることが大切です。今回から、「み言と訓読生活の必要性」について2回にわたって考えます。(季刊『祝福家庭』での連載を整理したものです。文責・編集部)
[Ⅰ]み言
①「み言」と私たち
本来私たちは、「神のかたち」に創造され、神によって命の息を吹き入れられた存在ですから、もしも人間始祖が堕落していなければ、神のみ言を語る者となっていたはずです。
聖書には次のように記されています。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。……この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」(ヨハネの福音書1章1~5節)
神様(天の父母様)は、創造理想として「み言」を立てられました。そのみ言は「真理」であり、「生命」であり、「愛」として現れるものでした。
しかし、人間始祖は神様のみ言を守ることができず、み言を“無視”し、善悪の実を“取って食べた”ことで、人類歴史が過ったところから出発したのです。その結果、私たちは“霊的に死んだ状態”に陥りました。
その私たちが、真の父母様によって「重生」され、死からよみがえり、命の道へと導かれたのです。全人類が真の父母様のみ言を学んで、神様の心情を体恤しなければなりません。ですから、天によって先に召された者の責任は大きいと言えます。
②「み言」は全ての基本
み言は全ての基本であり、基礎です。私たちは神様と共に生きる者として、み言を学び、心情を転換しなければなりません。日々使う言葉をはじめ、物事の考え方や生活習慣なども正していく必要があります。
み言を学んでも、その活用方法を研究しなければ、原理的生活をすることができません。み言を実践し、み言によって自らの問題を解決していかなければなりません。生活化することで、み言の実体となることができるのです。
言行不一致な堕落人間である私たちにとって、み言どおりに生きることはなかなか難しいものです。だからこそ重大な問題に直面したとき、真剣にみ言を訓読し、祈り求めることが大切です。問題を解決したときの感動と喜び、天に対する心からの感謝の思いを何回も体験していくうちに、み言の価値を実感できるようになり、成長していくのです。
聖書の中に「種まきの話」があります。
「種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、ある種は道ばたに落ち、踏みつけられ、そして空の鳥に食べられてしまった。ほかの種は岩の上に落ち、はえはしたが水気がないので枯れてしまった。ほかの種は、いばらの間に落ちたので、いばらも一緒に茂ってきて、それをふさいでしまった。ところが、ほかの種は良い地に落ちたので、はえ育って百倍もの実を結んだ」(ルカの福音書8章5~8節)
ここで「種」というのは、「神のみ言」のことです。このみ言を聞いたあとの状態を4つに分けて説明しています。
第1の「道ばたに落ちた」とは、み言を聞いたのち、すぐにサタンが来て、その心からみ言が奪い取られ、救われることはもちろん、信じることさえできない状態です。
第2の「岩の上に落ちた」とは、み言を聞いたときは、それを喜んで受け入れても、根を張ることができないので、試練に遭うと簡単に信仰を捨ててしまう状態です。
第3の「いばらの間に落ちた」とは、み言を聞いて実践していこうとしても、日々過ごしているうちに、生活に対する心配が多く、また富に惑わされ、快楽に心を奪われたりして、信仰の実が熟すことなく終わってしまう状態です。
第4の「良い地に落ちた」とは、み言を正しい心を持って受け止め、しっかりとその種を育て上げ、いかなる風雪にも耐え忍んで実を結ぶに至る状態を例えています。
自らの状態をよく知り、4番目のように正しい心でみ言を理解し、み言を守り、耐え忍んで実を結ぶ人生を歩んでいきたいものです。
み言を聞いて自らの心を耕し、さらに多くの人々に分け与え、そのごとく実践する人には、ますます多くの恩恵が与えられます。み言を自分の心の中だけにとどめ、あるいは知識としてのみ受け入れている人は、時とともに失われてしまうのです。
私たちがみ言を知った瞬間から、自らの成長、発展のための闘いが始まっています。み言を実践しつつ、人格を磨きながら、「神の心情の持ち主」になれるよう、努力を積み重ねていかなければなりません。
③「み言」によって自らの問題を解決していく
み言は、自らの課題を解決する鍵です。
それゆえ、問題の軽重にかかわらず、それを解決するために悩み、祈り求めていく中でみ言と向き合うのです。み言によってその問題が解決したとき、感動と喜びを感じ、天に対して心から感謝するでしょう。
このような体験を通して、み言に対する確信が生まれ、心霊が成長し、日々の生活は大きく転換されていきます。繰り返し、み言を学んで実践することで恵みを受けるでしょう。み言を知り、絶対的確信を持つことで、生活を変え、人生設計も、み言に沿ったものに転換することができるのです。
真の父母様は次のように語られています。
「最初は、み言をもって信じる時代であり、その次は、み言をもって実践する時代であり、その次にはみ言を中心として生活する時代です。……天国にしようとすれば、これがすべて一致しなければなりません。信仰の時代、実践の時代、生活の時代、このように発展するのです」(『御言訓読と霊界動員』75頁)
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次回は、「み言と訓読生活の必要性〈後〉」をお届けします。
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