コラム・週刊Blessed Life 198
本心を起点とせよ!

新海 一朗

 あっという間に終わろうとしているこの一年間を振り返ると、さまざまな思いが去来します。
 以下に概要を振り返ってみたいと思います。

 国際情勢は実に複雑怪奇そのものでした。米国、中国、ロシア、欧州などによる、戦略思考の粋を集めての覇権争奪戦。国内情勢も菅政権から岸田政権へ代わったとはいえ、逡巡(しゅんじゅん)する政治、決断できない政治の典型が続いています。社会はコロナ禍一色で、オミクロン株の世界的な感染拡大が進んでいます。特に英国での拡大など、異常事態は挙げればきりがありません。

 いずれにせよ、人間の業(ごう)、すなわち悪業の集大成のようなものが、個人から世界に至るまで、生き残りをかけて呻吟(しんぎん)苦悩しているさまは、悪の世界の終わりに直面した個人や組織、国家が必死にあがいている様子にしか見えません。

 悪がこれ以上続くことはないと、天が宣告しているようであり、この天の声を聞いた悪人たちが右往左往しているのが、2021年の真実の姿ではなかったかという思いがよぎります。

 悪が善のようであり、善が悪のようであるという倒錯した現象が広がっているのは、メディアがもたらしたものであると言えば、悪に加担したメディアこそが糾弾されるべき優先事項のようにも思われますが、世界が直面する課題はそれほど単純なものではないでしょう。

 現在を、聖書が言う「終末」、つまり「歴史的大転換期」と見た場合、それは世界のあらゆる組織、システムが人間の手の中にある限り、全ての問題の出発点、すなわち、善と悪の出発点は人間そのものにあると見る見方が妥当であるということになるのです。
 言い換えれば、人間が抱える善と悪そのものが天の歴史的審判、最後の審判を受ける時代に突入していると言えるのです。
 恐ろしいことではありますが、これが2020年代を生きる人類の宿命ではないかということです。

 このような転換の時代に生きるときには、世界の各国指導者、世界の各国国民の全てが、いったん自分の知識、権力、富、名誉を脇に置いて、虚心坦懐に天に向かう心情を持つことが何よりも重要であると言わざるを得ません。

 なぜなら、自分の固陋(ころう)な価値観にこだわっていたら、その価値観はもしかしたら根源から覆されるものであるかもしれないからです。難しいことですが、こだわりを捨てる勇気が必要です。

 とは言え、持つべきものを持つということも大事であり、全てを捨て去ることもありません。
 持つべきものとは、偽りのない心、すなわち「本心」であり、この本心こそは天が授けたものですから、本当の生き方、真の人生を指し示す働きをしているのが、まさに本心なのです。

 本心は「利他心」を絶えず発信しており、「利己心」を排除するように命令しています。終末時代における歴史的審判とは、「利己心」に基づく悪の所業に対して下される裁きであり、歴史的な悪の所業が終わるという意味での「終末」です。

 2021年、世界が呻吟している理由は、共産圏はもちろん、民主圏まで含め、人類の悪の所業に対して、終わりのラッパの音が天から吹き鳴らされているからです。
 悪人たちは震え上がっています。そういう時代相である故に、本心を起点とする生き方がこの時代に生きる唯一の答えとなるのです。