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中和新聞セレクト Vol.3
生活信仰のすすめ

 毎週2回(火、金)、さまざまなコンテンツを配信している『中和新聞』。Blessed Life編集部が同記事のアーカイブスからおすすめのコンテンツをセレクトして皆さまに紹介します!
 第3弾は「生活信仰のすすめ」(家庭カウンセラー:内田由喜氏)のシリーズを毎週水曜日(予定)にお届けします。
 同コンテンツは『中和新聞』2020年4月から連載中のシリーズです。

第2回 日々、神様の愛を感じる生活を〈後〉

(中和新聞 2020年6月5日 通巻1266号より)

 今シリーズでは、信仰の基本的な在り方や実践について考えます。日々の生活を通して神様を感じる生活が大切です。前回の「動機の成長」に続いて今回は、生活の中で神様と共に生きることに触れます。(『祝福家庭』で連載された内容を整理したものです。文責・編集部)

■生活の中で神様に語り掛ける
 前回は信仰生活における「動機(情)の成長」の重要性と、成長のための「命の源」となる、み言の訓読生活の大切さについて触れました。それに続く内容として、日々、神様に語り掛けながら生活することの大切さについて触れたいと思います。

 私自身、例えば講義を担当するときも、み言を整理しながら、「神様、これでいいでしょうか?」と祈りながら講義の資料を作っています。

 あるとき、講義を担当したあとに真のお父様が夢に現れて、「あんた、この話を何でしなかったのか」と、まるで講義のようすを見ていたかのように指導してくださったことがあります。

 神様からの答えというものは、このほかにも、実体の人間を通して返ってくることもありました。そのような体験を通して私は、「神様が絶対的な存在でいらっしゃる」と受け止めることができたのです。

 私はまた1人の主婦でもあります。

 例えば、事情があって帰宅が遅くなり、家族と共に夕食の場にいることができなかったとしても、夕食後に夫や子供の食器を洗うとき、「神様、きょう私の夫はどういう1日を過ごして、この夕餉(夕食)を迎えたんでしょう?」、「子供たちはどのようにご飯を頂いたんでしょうか?」というように、神様と対話しながら食器を洗います。

 このような生活の一コマ一コマを神様に問い掛けると、次の段階で悟らされることが実際に起きています。

 洗濯物を干していても、「ああ、神様。太陽がありがたいです」と感じます。

 私たちは現実世界に身を置いて生活していますが、心の中心にいつも神様を感じながら、神様との関係を動機として生活することが大切です。考えてみれば、とても簡単なことで、特別難しいことではありません。そのように生活の中で、神様との間で心情的な世界を感じることができるのです。

 「生活は生活、信仰は信仰」と切り離すことはできません。教会の集会に行ったら信仰者となり、家に帰ったら別世界であるというわけではないのです。信仰と生活は一つであり、祈りやみ言学習、そして動機も常に生活と一つです。

■サタンの働きを見抜いて分別する
 私たちが気をつけるべきことは、やはりサタン(悪魔、悪霊)という霊的な存在です。「神様を中心とする生活を」と思いながらも、一方では、自己中心的な思いや不平不満、堕落性から来る思いに相対してくるサタンがいます。

 信仰生活をする中、神様を中心として頑張ってみるのですが、心の底では、「もうこんなのやりたくないよ」とか、「苦労ばかりだ」などといった不満が生じるとき、“そうだよ、やめちまいな”とサタンがささやいてくるのです。

 このようなときには、み言学習や祈祷を通して、サタンを分別しなければなりません。サタンを見抜く力をつけていくのです。

 そして、「堕落した人間を救うために、神様が長い歴史をかけて苦労してこられた」というように祈るとき、神様に対する情が湧き上がり、信仰的な動機が成長していくのです。木の根が張り、木が繁茂していくのと同じです。

 そのような生活を積み重ねていくようにしないと、根を張ることができず、樹木全体に栄養が供給されずに、木は枯れていってしまいます。教会でも、信仰生活の長い人たちがマンネリ化や世俗化に陥ってしまうことが多いのです。

 何か一つのことが起きたときに、「ああ、神様、何か意味があるんですね」というような、神様を動機にした考え方になったり、「えー、何でこんなことが起きるの。私、何か悪いことした?」というような、自分中心の“罰論”のような考え方になったりします。

 信仰の動機が成長していないと、神様との関係が遠くなり、不平不満や平面的な見方に陥ってしまいかねません。

■自分の親としての神様を実感していく
 「真の父母様に侍る」という信仰生活について、真の父母様の価値、メシヤの価値を正しく知るためには、み言を、より深く学ぶことが必要です。

 本来は神様から出発すべきなのですが、アダムとエバが堕落することで、アダムとエバがしなければならなかったことを、真の父母様がなされ、指導してくださっているのです。

 私は、み言を通して神様を実感してきた世界があるので、真のお父様が聖和されても、神様と真の父母様を信仰の中心としながら、実感をもって生活していくことができます。訓読会をしっかりと実践することは素晴らしいことです。

 しかし、訓読会をすること自体が目的ではなく、訓読するみ言の背後にある神様と真の父母様を「自分の親である」として実感し、そこから「私は新しく生み直された、重生された」ということを実感できるように、み言をしっかりと学習することが必要ではないかと思います。

 私たちは社会の中で生活しているため、不本意ながら、外的な生活に追われる日々となっているかもしれません。

 もちろん、現実社会で外的(物質的)な豊かさを求めることは必要ですが、もっと必要なものは、内的(心情的)な「心の豊かさ」です。

 神様と自分との関係が主体であり、その相対圏にあるのが現実の社会ですから、まずは神様との親子の心情関係を強化しなければなりません。そのためには、霊的な糧である、み言が絶対的に必要なのです。

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 次回は、「孝情をはぐくむ報告祈祷」をお届けします。

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