2021.11.13 12:00
新 堕落性の構造 1
今回から『新 堕落性の構造』を毎週木曜日配信(予定)でお届けします。
いじめとは? 嫉妬とは? 恨みとは? 真の主体性とは?…現代人に不幸を招来する「心のゆがみ」。そんな悩みの尽きないテーマをズバッと解説! 人間堕落の根源からその原因を究明している一冊です。
阿部 正寿・著
はじめに
時のたつのは早いもので、私が最初に「堕落性の構造」を「新天地」誌にシリーズで連載したのは、確か昭和49年(1974年)のころだと記憶しています。その当時、創刊されたばかりの「新天地」に「統一原理」(文鮮明〈ムン・ソンミョン〉先生が説かれた、人生と宇宙の根本問題を解く真理)を分かりやすく書いてほしいという要望がありましたので、あまり準備もないままにシリーズの連載を始めました。毎回、話のネタを探すのに苦労したことを覚えています。
人間の堕落性を取り上げたのは、万民に共通の問題であり、かつ皆がそのゆえに悩んでいる課題なので、受け入れられやすいということからでした。事実、自分から言うのは面はゆいことですが、その当時このシリーズを読まれた多くの読者の方々から、とても分かりやすく、自分の問題にぴったりでとても参考になったという御感想を頂き、私といたしましてもうれしく感じました。
その後、私は仕事で英国のロンドンに住むようになり、多忙な生活の中でシリーズでものを書くなどということに自信がもてなくなり、20年近く筆を執らずにおりました。その間何度か「堕落性の構造」の続きを書いてはどうかというお話はありましたが、書く以上は責任をもってちゃんとした内容のものを書かないといけないし、いい加減なものであれば後々までも記録として残ることになるので躊躇(ちゅうちょ)しておりました。
平成5年(1993年)12月23日に、日本に帰国したのを機に、再び新天地編集部より原稿依頼のお話があり、あえて挑戦することにいたしました。新シリーズを始めるにあたり、『堕落性の構造』の単行本(本書の1〜10)を読み返してみましたが、特に改めるべき点は感じられず、また自分から言うのも口はばったいことですが、とても新鮮に感じられ、こんなことを書いていたのかと驚きを感じたものです。もちろん中には「学生がゲバ棒を振り回す」等という表現は現在の学生には通じないことかと思います。現代風に書き改めるべきかとも考えましたが、それはそれでこれが書かれた当時の世相を反映したものとして、そのままにしておいたほうがオリジナルを損なわないものとなるのではと思い、改めずにおきました。読者の皆様の御了承をたまわりたいと思います。
さて、筆を執り、前にも増して内容の充実したものをと張り切って始めたのはよいのですが、他の仕事で多忙を極め、毎回締切り間際に慌てて書くという結果になり、十分な資料調査や勉強ができずに終わったことは、私としても不本意であり、また読者の皆様方には申し訳ないこととおわび申し上げます。ただし、新シリーズにおいては、個人としての人間の堕落性のみならず、集団としての民族のもつ堕落性にも考察を入れてみました。成功したかどうかは読者の判断に委ねるところですが、これは私が英国に滞在していたころ、英国人の民族性というものを、つくづく観察しながら、各民族の堕落性というものを題材に書いてみたいという思いを抱いたからです。時間と余裕が許せば「日本人の堕落性」、「英国人の堕落性」、「アメリカ人の堕落性」というふうに書けば面白いだろうなと考えています。
ともあれ、このたび「新・堕落性の構造」を無事書き終わり、光言社よりこれを小冊子にして出版したいとのお話があり、有り難くお受けしたわけですが、それならついでに前の冊子も合わせて出版できないかと厚かましくお願いいたしましたところ、光言社の戸石社長(当時)より快諾のお返事を頂き、このように発刊の栄に浴することになり、心からお礼を申し上げます。
この本が、堕落性に悩む多くの方々の問題解決の一助にもなれば、私の心からの喜びとするところです。まだまだ勉強不足ですので、これからも一層努力して、文鮮明先生の説かれた「統一原理」が人生の根本問題を解決する真理であることを、多くの人々に分かりやすく説いていくことに邁進(まいしん)していく決意です。文鮮明先生の「統一原理」なくしては「堕落性の構造」もあり得ませんので、すべての栄光と感謝を文鮮明先生御夫妻にささげたいと思います。
最後に、この本の出版に当たり御尽力くださいました光言社の戸石社長はじめ、編集部の皆様方に心から感謝の意を表します。
1995年12月30日 北九州市にて
阿部正寿
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次回は、「見栄はだれにでもある」をお届けします。