2021.10.16 22:00
信仰は火と燃えて 1
来日・結婚・悩み
アプリで読む光言社書籍シリーズ、「信仰は火と燃えて」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
教会員に「松本ママ」と慕われ、烈火のような信仰を貫いた松本道子さん(1916~2003)。同シリーズは、草創期の名古屋や大阪での開拓伝道の証しをはじめ、命を懸けてみ旨の道を歩まれた松本ママの熱き生きざまがつづられた奮戦記です。
松本 道子・著
来日・結婚・悩み
私は、韓国の慶尚南道(キョンサンナムド)のはずれの片田舎で生まれました。上の兄が亡くなり、すぐ上の兄と私とは10歳年が違ういわゆる年寄り子で、両親の愛を一身に受けて育ちました。母は熱心なクリスチャンで、私は小さい時から母に背負われて教会に行っていました。
母はとても気の弱い人でした。昔、母の友達で、のどに魚の骨がささって、苦しみながら死んでいった人がありました。母はその姿を見て、「あの人を誰も救えなかった。自分もあんなに苦しみながら死ぬのではないだろうか。生きるとは何だろう。死んだらどこへ行くのだろう」と絶望と悲しみのあまりノイローゼになってしまい、一日中泣き続けるという状態でした。
父は何とかして治そうと思い、医者にみせ、いろいろなところに連れて行って八方手を尽くしましたが、原因不明でどうしようもありませんでした。そこで仕方なく、愛島(エト)という静かな島に静養に行かせました。その島にキリスト教が入ってきたのです。
神とキリストと聖霊の名によって悪霊を追い出して、救いを祈ってくださる牧師の言葉に感動し、神を知り、キリストを知って、自分が救われていることを知るようになると、母の病気はすっかり治ってしまいました。そうして熱心なクリスチャンとなって、10年後に私が生まれたのです。1916年旧暦1月7日のことでした。父は男の子を望んでいたので、正道という男のような名がつけられました。
母は、毎朝4時ごろになると、家の庭の300年もたった木の下でお祈りをしました。甘えん坊の私は、その祈りが終わるまで母のそばで待っているのです。寒い日は母の長いスカートの中に入って、ひざを枕にして寝てしまうのでした。「主よ来たりませ。私の民族を救ってください。遠い日本で苦学している息子を守ってください」と祈る母の声を、毎日子守歌のように聞いていました。
日曜日になると、母におんぶされて教会に行きました。当時、韓国は日本の統治下にあり、私の家から教会に行くのに、日本人町を通って行きましたが、子供の私の目的は教会ではなく、この日本人町にあるお菓子屋でした。家が貧しい百姓なのでお菓子など食べたことがなかったのです。
どんなに寒い日でも、日本人町に来ると決まって私は母の背中から下りました。そして、歩きながらあちこちのお店をのぞいては、ああ、あのお菓子をおなかいっぱい食べてみたいと思うのです。
「ねえ、お菓子買って」と母にねだると、「帰りに買ってあげるから、おりこうにしているのよ」と答えます。けれども貧しい百姓ですからお金があるはずはありません。帰り道、母はどんどんお菓子屋の前を通り過ぎてしまいます。私は甘えん坊のおてんばでしたから、母に向かって石を投げながら、「お母さん約束したのに、うそつき、お母さんはお菓子を買ってくれない――」と、声をあげて泣きました。母は、ポプラの枝でむちをつくってたたきます。それでも私は、ワーワーと何時間もだだをこねて泣きました。すると母は、私を抱いて泣きながら「こんどお金をつくって買ってやるから」と慰めるのでした。
お菓子が食べたい。あめ玉がなめたい。それが子供の私の最大の願いだったのです。
10歳の夏のある日のことでした。同じ村の、日本に留学していたお金持ちのお嬢さんが、夏休みに帰省しました。私の兄が日本に留学していたので、母は息子の消息を聞くために、そのお嬢さんを訪ねました。その時、私も母について行ったのですが、そのお嬢さんが、私の心を非常に引きつける話をしました。
「あなたの息子さんは、セロハンの袋にお菓子を詰めて、いろいろな劇場に卸す仕事をやっています。だから夏休みになっても帰ってこられないんです」と言うのです。
私はお菓子と聞いてびっくりして、胸がドキドキしてきました。自分はお菓子を食べたくて病気になりそうなのに、兄はそのお菓子を取り扱っているというのです。私はうれしくて、よし、お兄さんのところへ行こう、と子供心に決心してしまいました。母は、息子が苦学をしていることを聞いて泣きながら歩いて帰りましたが、私は、お菓子が食べられると思うとうれしくて、希望に胸をはずませて帰ったのでした。
ところが、日本に行きたいという私の願いを、父は絶対に許さないと言います。兄さんがいるから大丈夫だと言ってもだめでした。けれども私は行きたくて行きたくてたまらないものですから、御飯も食べず、熱を出して3日間泣き続けました。お菓子が食べたくて、「兄さんに会いたい」とだだをこねるのです。とうとう父母はあきらめて、このままではこの子は死んでしまう。仕方がないから行かせようということになりました。
生まれて初めて乗る長い列車に3時間ほど揺られ、一日かかってやっと釜山(プサン)に着きました。10歳の子供が親元を離れ、海を越えて遠い日本に渡るということは、いくら肉親がいるとはいえ、普通では考えられないことです。けれども子供の私にとって、お菓子の魅力はその不安を越えるものであり、神はきっとお菓子をもって私を日本へと導かれたのでしょう。
翌日下関に着き、何時間も列車に乗ってやっと東京に着きました。結局、それからずっと日本に住むようになったのです。
やがて兄は、アルバイトで始めた仕事が本職になり、たくさんの人を使い、一流劇場に卸すようになって、26歳で既に社長でした。またグリコ会社の宣伝部長として、どんどん責任ある立場に立ってやるようになり、そこの一番優秀な社員に私をお嫁に行かせました。ちょうど不景気な時ですから兄は、妹を生活能力のある男のところへ嫁がせるのが、自分の責任だと思っていたのでしょう。満17歳、夢や理想がたくさんある私を、女学校2年で中退させてお嫁に行かせたのでした。
12月25日クリスマスの日に結婚し、新婚旅行もないままに、翌日から新しい生活が始まりました。夫の家は、父母兄弟、雇い人を含めて15人くらいの家族でした。ところが私は家では甘やかされて育ち、10歳から兄の手で育てられたので、御飯の炊き方も針の持ち方も知らず、まだ少女クラブを読んでいた子供だったのですから大変です。夫は、半年くらいは自分で炊事をし、私を訓練しなければなりませんでした。
夫は韓国人ですが、私よりも幼い時に日本に来ているので、趣味も日本的で武士のような人でした。24、5歳で人を使う立場に立ち、長男でもあったのでいろいろと苦労も多く、年のわりに精神年齢の高い人でした。それに比べ私は、両親に愛され、兄に愛されてきた甘えん坊で、まだ夫の弟や妹とかくれんぼをして遊ぶほうがいいような子供だったのです。
その上、夫と私とは性格も趣味もことごとく違っていました。夫は事業面でどんどん成功を収め、家族のことをいつも心にかけていました。私は、バカではないかと思われるほど人情的で、いつも使用人の味方でした。また、夫は和服が好きでしたが、私は和服が大嫌い。食べ物も夫は魚や野菜が好きで、私は肉や中華料理などが好きというように、着る物、食べ物、映画の趣味までことごとく違っていました。
こんな具合ですから、いつでもけんかが絶えず、夫とけんかをすると私はすぐ兄のところへ帰ってしまいました。すると夫が迎えに来て、兄に「道子はこうなんだ。とても一緒に生活することができない」と訴えるわけです。それに対し、兄が「まだ子供なのだからお前が育てながら暮らすんだよ」と言っているのが聞こえました。それで夫は、兄が妹をなだめるように私の好きなものを買って、自転車に乗せて帰るのでした。
結婚して10年、一男二女が生まれ、そして27歳の時に戦争になりました。韓国に帰りたいという夫の両親の願いにより、夫は、両親と長女を連れて先に韓国に帰りました。それが夫との永遠の別れでした。戦争が終わってから、夫がパラチフスで死んだという知らせが届いたのです。私は夫の死を確かめるために韓国に行き、そこで夫の日記を見つけました。日記の中には、私のことばかりが書かれていて、その時初めて、私の帰りを一日千秋の思いで待っていた夫の気持ちを知ったのでした。
世間知らずの私は、結婚してから様々な苦労がありましたが、そのほかにも、人に知られざる悩みがありました。
私は、母がクリスチャンでしたから、日本に来てからも自然に教会に通い始めていました。けれどもそのうちに、聖書に疑問をもつようになったのです。人間はどこから来たのか。神は泥で人間を造ってどのように息を吹き込んだのか。天国はどこにあるのかと、数々の疑問を牧師にぶつけました。
「聖書に書いてある」と牧師が答えると、「聖書は人間が書いたものじゃないですか」と言い、「聖霊が書いた」と言えば、「聖霊をあなたは見たことがありますか」と追求していきました。
けれども結局「あなたは理屈屋だ。ただ信じさえすれば天国へ行くんです。そういうことを言うもんじゃない」と言うだけで、誰も答えてくれません。誰と話してもけんかになってしまい、ついに私は考え込んで、3日も口をきかないこともありました。
また、私が苦しんだことは、信じるものが何もないことでした。おそろしい空襲の中で、防空壕(ごう)に隠れ、私は神を否定しながらも必死に神に祈っていました。共産主義者の友達が、「神なんかいるもんですか。あなたは見たことないでしょう。神は人間がつくりあげたものなんですよ」と言えば、なるほどと思います。けれども神がいないのに、どうして人間は生きているのだろうと思うと、また分からなくなって悲観してしまうのです。母の生き方も間違いだったのでしょうか。人間も信じられず、聖書も心の支えとはなりませんでした。
とはいうものの聖書をよく読んでいました。私の行っていた教会の牧師は、そういう私を信仰のあつい婦人だと褒めて、とても信頼してくれました。そして、教会の開け閉めをする任務を私に与え、鍵(かぎ)を預けてくれました。聖書の詩篇に「常にあなたは、私を求めよ。そうすれば、私に会うであろう」とありますが、私は、「こんなにあなたを求めています。あなたはどこにいるんですか」と毎夜泣いて祈りましたが、神を捨てることもできず、完全に信じることもできない苦しい毎日でした。
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次回は、「青年宣教師との出会い」をお届けします。