2021.06.07 22:00
風のハンカチ
作・うのまさし
画・小野塚雅子
しづが、こすけと過ごした場所を歩いています。2人には、楽しい思い出があったわけではありません。ただ暗い時代を寄り添って生きてきたのです。
しづの夫のこすけは、無口な男でした。
貧しい農村の生まれで、学校にも通えず字の読み書きもできませんでした。
子供のころに奉公に出され、もくもくと働いてきました。
2人は、1年前に見合いをして、互いに同じような身の上で、ひかれるものを感じて結婚しました。
こすけはなまりが抜けず、しづを「すづ」と呼んでいました。2人で字を習いはしましたが、こすけは覚えが悪く、しづを「しう」と書いてしまいます。
しづがこすけと暮らし、ようやくその優しさを感じ始めた冬の訪れのころです。こすけは「きっと帰ってくる」と言って、戦場に向かいました。
しづは、こすけのことを案じると、朝早く目覚めてしまいます。しづは、井戸の水で身を打つことにしました。
「もう一杯、もう一杯、私も苦しまなければ、夫婦の絆(きずな)が切れてしまう」
心の声に従って、何度も冷たい水の入った桶(おけ)を手にしました。しづの体を気遣う近所の人に止められたこともありました。それでもしづは、夜明け前の井戸に向かいました。
雪が降る2月のある日、こすけの戦死が伝えられました。
しづは、夫婦で暮らした短かった時をたどっていました。
いつのまにか目には涙があふれてきました。その時、流れた涙を風がさっと乾かしました。
「あなた、帰ってきたんですか」
しづには、こすけがハンカチでぬぐってくれたように感じました。
「独りじゃない、夫婦の絆は切れていない」
そう思うと、胸から熱いものがこみ上げ、思わずうずくまり泣きくずれました。
温かさに包まれ、いくつの涙を流したでしょうか。目から手を離し地面を見ると、しづの落とした涙の跡が「しづ」の文字になっていました。
「あなた、ようやく、私の名をきちんと…」