孝情を育む 5
信じること・愛すること

家庭教育部長 蝶野知徳

 『ムーンワールド』で連載中の蝶野知徳・家庭教育部長による子育てについてのエッセーを、Blessed Lifeでも隔週でお届けします!
 孝情を育む子女教育を考える上で、どんな思いで向き合えばいいのかを端的に分かりやすく解説します。

愛は信じることから始まる
 愛するということは、復帰の道においては、その中身のほとんどが「信じること」で占められています。神様と人間の本然の親子の愛の関係は、人間の責任分担不履行によって断絶し失われましたが、これを取り戻すための復帰の責任を負われたのは、人間ではなく、責任を果たされた側の神様でした。つまり救援摂理の出発も、神様の創造主としての責任心情からくる、涙を伴った愛で始まりました。

 神様はご自身と疎通できない人間の姿に痛みを抱えながらも、長い歴史を耐え忍び、何度人間が不信をしても、諦めず投入し続けてこられたのは、人間を信じ続けてこられたからです。そこに私たちは心を打たれるのです。

 私たちの子女への愛も、創造の愛にしろ、復帰の愛にしろ、子女を信じられないというところから出てくることはありません。子女を信じているからこそ、その投入する心が真実だと言えるのです。

 ですから、愛は必ず不信から始まるのではなく、信じているところから始まります。しかし、蕩減の道というのは愛を復帰する過程でもあるので、信じられないものを信じてゆく愛であり、その背後には常に涙があったのです。

 この新しい時代においては、子女の中にある神性の存在に絶対的な確信を持って、投入し愛してゆけば、必ず愛と原理の主体である神様と出会うようになっているのです。

信じることが難しくなる時
 子女が父母の思うようにならなくなり、子女を信じるのが難しくなる時があるといいます。それは堕落性の部分を見て信じようとしているからです。神様の子女であるという神性、本性の存在を、その子女の中に確信するところからのみ、私たちの愛も投入も真実になるのです。

 神様は、霊肉共に無知なる人間を、何をもって信じ続けてこられたのかといえば、人間の堕落性ではなく、神様ご自身に似た本性の存在ゆえです。堕落人間の中にもある、本性や良心の存在を知っておられたので、やがては、必ず神の子として自分のもとに帰ってくるに違いないと、人間の未来を信じ続けてこられたのです。

全ては「神様の子女である」から
 子女の本性や神性の存在に対する確信は、いかなる難しい状況の中でも、父母の中では不動でなければなりません。それを維持できる唯一の方法は、この子女は「神様の子女である」という確信です。子女を貴く思い、そのように扱えば、貴くなっていくのです。それが創造です。子女を育む技術の全てはその一点から出発するのです。

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 次回は、「自己を否定する」をお届けします。