歴史と世界の中の日本人
第30回 高木兼寛
南極大陸の一角に輝く日本人の世界的業績

(YFWP『NEW YOUTH』188号[2016年2月号]より)

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 イギリスの極地研究所は南極大陸の一角に、世界的に著名な栄養学者でビタミンの研究に業績を挙げた日本人の名前を冠した地名を付けた。「タカキ岬」である。

 「日本帝国海軍の軍医総監にして、1882年(明治15年)、食餌(しょくじ)の改善によって脚気(かっけ)の予防に初めて成功した人」と説明されている。

 その人とは、高木兼寛(かねひろ/18491920)である。

▲高木兼寛肖像画-高木兼寛生誕の地穆園広場内の案内板より(ウィキペディアより)

 高木兼寛は海軍医務局副長就任以来、当時軍隊内部で流行していた脚気の解決に取り組み、脚気新患者数、発生率および死亡数を激減させた。
 洋食と麦飯による兵食改革の結果であった。

 1884年の軍艦「筑波」による航海実験は日本の疫学研究のはしりであり、それゆえ高木は「日本の疫学の父」とも呼ばれる。
 その後、高木の「海軍カレー」は脚気撲滅にひと役買ったといわれている。

 麦飯を推奨していた高木が再評価されるのは日露戦争後であり、また脚気と食事の関係に着目した取り組みの延長線上にビタミンの発見があった。
 ビタミンが発見され、脚気病はビタミンB1の欠乏により起こることが分かった。

 欧米においては高木の業績に対する評価は極めて高く、フィラデルフィア医科大学、コロンビア大学、ダラム大学は高木に名誉学位を授与し、ビタミン、栄養学に関する著名な書物の多くで高木の業績が詳しく紹介されている。

 高木はこれらの功績により1888年に日本最初の博士号授与者の一人に列せられ、医学博士号を授与された。

 海外での脚気業績に対する高木の評価は高い。
 「独創を尊び成果を重んずる西洋医学からみると、高木の『食物改良による脚気の撲滅』は、発想の独自性と先見性、成果の素晴らしさから、正しく画期的な業績であった。ビタミンが知られた後には、さらにその先見性が高く評価され、ビタミンの先覚者と位置付けられている」と。

 脚気の撲滅に尽力し、「ビタミンの父」と呼ばれた高木兼寛。
 しかし、世界的に認められた歴史的な業績も日本においては長らく知られることはなかった。

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 次回(2月25日)は、「映画を通して『日本』を世界に発信したクロサワ」をお届けします。