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2014年04月29日

『原理講論』語句解説(21) 摂理歴史の各時代とその年数の形成

『原理講論』には難しい言葉が使われている箇所が多くあります。そのため、意味がつかめなかったり、文脈からしてこうではないかと推測するものの、違った意味に捉えてしまうようなこともあります。そこで、難しい言葉に解説を加えてみました。

[ ]の中は、『原理講論』のページ数と、行数を示しています。一つの言葉に、二つ以上の意味がある場合、『原理講論』で使われている意味のほうに☆印をつけました。反対語は⇔で、参照は→で示してあります。

<摂理歴史の各時代とその年数の形成>

[436-5]螺旋(らせん)→[164-12]

[442-7]烈士(れっし) 革命や維新などにおいて戦い、功績を残し、犠牲

     となった人物、またはその人物の称号をいう。

[448-15]アララテ ノアの箱舟がとどまった山地の名(創世記8:4)。そ

     の正確な位置は不明であり、様々な説がある。

[448-15]ミデヤン→[359-3]

[449-1]帰一数(きいつすう)→[164-12]

[455-3]ジフの月(つき)「花の月」という意味。カナン人の暦の月の古

     い呼び名。後代のヘブル暦では、第2月のイツヤルの月。太陽暦で

     は4、5月に当たる。ソロモンは、この月に神殿の建設に着手した。

[456-13]縦(たて)からなる横的(おうてき)な蕩減期間(とうげんきかん) 

     歴史的な蕩減期間を、一時代に蕩減することをいう。

[459-2]ネブカデネザル ネブカドネザル二世とも。新バビロニア帝国(カ

     ルデア王朝)の創立者ナボポラッサルの子。父の跡を継いで帝国最

     大の王となり、父の死後大挙して攻めてきたエジプト王ネコ二世の

     大軍をカルケミシで破ってシリアを奪い、預言者エレミヤの忠言を

     聴かなかったユダ王エホヤキムを撃ち、エルサレムを陥れてエホヤ

     キムら一族をバビロンに幽閉した。その後エジプトにそそのかされ

     てパレスチナ諸市が背いたのでこれを討ち、再びエルサレムを陥れ

     て破壊し、その王ゼデキヤと住民をバビロニアのニップール市付近

     に幽閉(バビロン捕囚)し、ユダ国を滅ぼした。

[459-2]バビロニア チグリス・ユーフラテス両河の間の地域で、いわゆる 

     メソポタミアの南部沖積層の平野全体を指す。旧約において、シナ

     ル、カルデアびとの地などと呼ばれる。

[459-2]バビロン メソポタミアのユーフラテス河畔に位置するバビロニア

     帝国の首都。

[459-3]クロス王(おう) キュロス二世とも。前600頃〜529。古代ペルシ

     ャのアカイメネス王朝の王(在位:前558〜592)。クロスからペル

     シャ帝国が始まり、アレクサンダー大王の到来に至るまで続いた。

     ネブカデネザルの死後7年たってナボニドスがバビロンの王となっ

     た(前556)。その時既にイランの高地において、ペルシャが征服計

     画を進めていた。ナボニドスを攻めてバビロンを陥れ、新バビロニ

     アを滅ぼした。ついでキリキアからフェニキア(シリア)にかけて

     の諸部族を服従させ、バビロニア捕囚中のユダヤ人を解放、またギ

     リシャ諸市の僭主政治を助けた。こうしてエジプトを除くオリエン

     ト世界はことごとくペルシャ領となり、強大なペルシャ帝国が出現

     した。

[461-11]コンスタンチヌス大帝(たいてい) コンスタンティヌス大帝とも。

     274頃〜337。ローマ皇帝(在位:324〜337)。コンスタンティヌス

     朝の創始者であるコンスタンティウス一世の息子。モエシア属州の

     ナイッスス(現セルビアのニシュ)に生まれる。306年、父の死に際

     し、現在のヨークで軍隊によって正帝とされたが、西方皇帝となっ

     たのは、ローマのミルウィウス橋の戦いにおいてマクセンティウス

     を破ってからであった。その際、中空に光る十字架と「これにて勝

     て」の文字を示され勝利を収めたとの伝承は有名である。翌313年

     ミラノでまた東方皇帝リキニウスと連名で「ミラノ勅令」を発布し、

     キリスト教を公認した。次いでリキニウスをも降ろして全くの独裁

     君主となった。また、帝国統一の基礎としての教会の統一に深い関

     心を示してニカイア公会議を招集した(325)。「キリスト論」の正

     統教理を定め、アリウス説を異端とした。異教的伝統の強いローマ

     を去って、都をビザンティウムに移し、コンスタンティノポリスと

     命名し、ディオクラティヌスの遺策を継いで専制君主政を確立、ロ

     ーマ帝国の再建を計った。死に際し臨終の床で洗礼を受けた。

[461-12]テオドシウス一世(いっせい) 東ローマ帝国皇帝、テオドシウス

     大帝とも呼ばれる(346〜395。在位:379〜395)。ローマ帝国の上 

     級将校だった大テオドシウスの息子としてカウカ(現在のスペイン

     のコカ)に生まれた。軍事的手腕を買われて皇帝となり、ゴート族

     を味方に組み入れてドナウ南岸を平定し、長年にわたるゴート族の

     問題を解決した。教会史の上では、ローマの異教礼拝を禁じ、キリ

     スト教を国教とし公認したことにより古代教会の発展に重要な役割

     を果たした。大帝という名はカトリック教会を積極的に擁護したこ

     とに由来する。

     コンスタンティヌス一世以来、初めてコンスタンティノポリスに

    常住した皇帝である。死に際して帝国をコンスタンティノポリスを

    首都とする東ローマ帝国と、ミラノを首都とする西ローマ帝国に分

    割し、二人の息子をそれぞれ帝位につけた。

[462-13]チャールズ大帝(たいてい) カール大帝あるいはシャルルマーニ

     ュとも。742〜814。カロリング朝のフランク王(在位:768〜814)。  

     西ローマ皇帝(在位:800〜814)。彼は当時においても、伝説的な

     中世の意識にとっても、その軍事的、宗教的、文化的業績によって

     中世初頭最大のキリスト教的支配者とみなされており、近代の歴史

     的研究の結果においてもこの評価は変わっていない。父ピピンの死

     (768)後、そして弟カールマンの死(771)後、全フランク王国の

     統一的支配者となった。彼は祖父カール・マルテルが創出し、父ピ

     ピンが整備したフランク王国の機構を継承し、彼の国家建設と教会

     政策と文化理念によって、それに新たな形式を与え西欧中世の前提

     となした。すなわち彼の治世において初めて西欧を構成する三つの

     要素たる古典文化、キリスト教、ゲルマン的精神の融合が実現され

     たのである。

      800年のクリスマスに教皇レオ三世により聖ピエトロ大聖堂にお

     いて至高至尊の帝冠が授けられた。この戴冠によって476年以来断

     絶していた西ローマ帝国が復興し、教権と帝権の間に密接不離の関

     係が生じ、これによってローマ教会は東ローマ帝国の干渉から独立

     することができた。かくて王権はローマとの結合のゆえに、一層権

     威づけられ神聖化され、フランク王国自体、さらに中世国家全体を

     キリスト教的使命に結びつける結果となった。

[462-13]王統(おうとう) 帝王の血統。皇統。

[462-13]ヘンリー一世(いっせい) ハインリヒ一世とも。ドイツ国王(876

     〜936。在位:919〜936)。ザクセン王朝の祖で、912年以降ザクセ

     ン侯爵。シュヴァーベンとバイエルンをドイツに併合し、ロレーヌ

     を奪回、ヴェント族を928年に、マジャール人を933年に破り、934

     年にはロートリンゲンをデンマークから奪回した。それまでのフラ

     ンク王国において行われてきた分割相続の慣例を廃し、世代を超え

     た永続的な国家領域を形成する基礎を築いた。息子に初代神聖ロー

     マ皇帝オットー一世がいる。

[463-7]南仏(なんふつ)アヴィニョン 14世紀初めから1377年にグレゴリ

     ウス11世がローマに戻るまで1世紀にわたってローマ法王領として、

     アヴィニョンに教皇庁が置かれていた。童謡「アヴィニョンの橋の

     上で」で知られるサン・ベネゼ橋も有名。橋の上で輪になって踊ろ

     うと歌われているが、実際は、踊れるほど安全な橋ではない。渡る

     ことさえ危険なときもあり、橋から転落し命を落とした者さえいる。

     ローヌ川の度重なる氾濫により何度も橋が崩壊、そのたびに修復を

     強いられ財政を圧迫した。17世紀にはついに修復を断念、22あった

     橋脚のうち、現在は四つのみが残っている。

[464-3]クレメンス五世(ごせい) 1264〜1314。教皇(在位:1304〜1314)。

     フランスのアキテーヌ公領ヴィランドロに生まれ、トウールーズ、

     オルレアン、ボローニャの諸大学に学び、コマンジュの司教、ボル

     ドーの大司教を経て、ベネディクトゥス十一世の後継者として教皇

     に選出された。彼の戴冠式はフランスのリヨンにおいて、国王フィ

     リップ四世臨席のもとに行われ、教皇権は著しく国王に依存するよ

     うになった。アヴィニョンに居を移し、これがアヴィニョンの捕囚

     のはじめとなった。ヴィエンヌ総会議において、クレメンスはフラ

     ンスの利益のために動いた。フィリップ四世と彼の与党に対して、

     教皇ボニファティウス八世が下した異端と不道徳に対する処置を撤

     回し、またフィリップ四世の要請を受け入れて、神殿騎士修道会を

     解散した。フランス王位継承に際し、クレメンスは他の候補者を退

     けて、ハインリヒ七世を王位につかせ、戴冠式において、封土受領

     の宣誓を宣言した。いろいろな政治的困難に出遭ったにもかかわら

     ず、また税制や職位譲渡などの問題で、教皇庁への不信を高めたに

     もかかわらず、彼は学術向上のために貢献するところが少なくなか

     った。特に医学と東洋語研究に力を入れ、オルレアン大学、ペルギ

     ア大学にそれらの学科を創設した。またクレメンス教令集の編者で

     あるとともに彼自身法学者として知られている

[464-12]幽閉(ゆうへい) ある場所に閉じこめて外に出さないこと。「地

     下牢に―する」

[464-12]ルター  マルティン・ルター。1483〜1546。ドイツの宗教改革の

     創始者。アイスレーベンで「農民の子」として生まれる。エルフル

     ト大学入学(1501)、法学部進学後、シュトッテルンハイム近郊で

     の落雷体験をきっかけにアウグスチノ会修道院に入り(05)、12年

     神学博士、13年以来ヴィッテンベルク大学神学部教授として生涯聖

     書注解の講義を続ける。初期において「受動的な神の義」の発見が

     宗教改革の内的発端となる。「95カ条の提題」(17)、アウクスブ

     ルク審問(18)、ライプツィヒ討論(19)を経て、破門宣告を受け

     る(21)。その間『キリスト者の自由』(20)などの宗教改革文書

     を出版。その後、聖書全巻のドイツ語訳を完成し出版する。ルター

     は、人の姿となられた神の言葉としてのイエス・キリストにのみ従

     うことによって、信仰と思想において宗教改革という転換をもたら

     した。キリスト教会の分裂(シスマ)はルターの意図するところで

     はなかったが、彼の影響下で福音主義教会(ルター派教会)とアウ

     クスブルク信仰告白が形成された。

      宗教改革の中心人物となったことでプロテスタント教会の源流を

     つくった。聖書をキリスト教の唯一の源泉にしようというルターの

     呼び掛けはプロテスタント諸教会のみならず、カトリック教会にも

     大きな影響を与えた。宗教上の足跡のみならず、ヨーロッパ文化、

     思想にも大きな足跡を残した。例えば彼のドイツ語聖書が、近代ド

     イツ語の成立において重要な役割を果たしたことや、自ら賛美歌を

     つくったことなどが挙げられる。カタリナ・フォン・ボラという元

     修道女と結婚したことでプロテスタント教会における教職者、牧師

     の結婚という伝統をつくったことでも知られる。  (1040)

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