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2018年11月16日

私の宗教性を育んだもの

 

突然ですが、皆さんは麻雀をやったことがありますか?

私は縁あって、高校生の時から嗜んでいます。中には「麻雀」と聞くと悪いイメージを持つかたもいらっしゃるかもしれません。

しかしながら、私にとって麻雀は自身の宗教性を育んでくれた、とても恩恵深いものです。今回はそのことについてブログを書かせていただきたいと思います。
(※このブログは麻雀を行うことを推奨しているものではありません)

「宗教性」というとさまざまな意味合いがあると思いますが、ここでは「目に見えないものを大切にする心や感性」ぐらいのニュアンスで読んでもらえれば幸いです。

さかのぼること10年前。高校生だった私は、二世でありながら非常に唯物的な考え方をしていました。単純に目に見えないものが信じられない人だったのだと思います。

しかし、麻雀をやっていると、ある一定の基準に技術が達したとき、自身の内的なものや精神性に目を向けざるを得ないときがきました。

麻雀をある程度やってきた人なら分かると思いますが、麻雀は数学的要素(確率や期待値)と精神的要素(動じない心や信念など)が問われるゲームです。無論、他にも状況判断能力や分析能力など、必要な要素を挙げればきりがありませんが、大まかにはこの2つに要約されると考えます。

実際には「デジタル(理論)派」と「オカルト(精神)派」という麻雀ワードで大別され、「オカルト デジタル」などでネット検索をすると、麻雀のページがたくさん出てきます。

以前はこの2つの派閥は相容れない関係性でしたが、今はお互いを容認し、共存するような風潮が強いようです。(個人的には統一原理の「宗教と科学の統一」に重ね合わせています!)

 

話は戻りますが、私は当初、麻雀を数学的にしか捉えていませんでした。私の根っこにある唯物的な考え方が、「麻雀は確率のゲームである」と信じて疑わなかったのかもしれません。しかし、ある時期からその打ち方に限界を感じ、精神的部分にも目を向けるようになりました。

麻雀はとても「性相が形状化」しやすい競技です。

スポーツであれば、選手の情熱や思いが、形状としてプレーに表れ、芸術家であればその人の芸術性や独創性が形状として作品に表れるように、麻雀もその人の考え方や人間性が形状としてゲームを通して露わになります。

そういうことから、私はある日、自分で自分の打ち方を見ながら、「自分は何と小さい人間なんだろう」と思うことがありました。

詳細は省きますが、負ければ小さい子供のように腹を立て、勝てば浮かれ、人をどこか見下したように見ている自分の姿。その姿がとても卑しく感じ、より精神的なものに目を向けるようになりました。

理不尽はあって然るべきものだと受け入れ、勝っても謙遜になり、勉強する姿勢を忘れず、一つの自分のスタイル(信念)を貫く。そういった部分を、麻雀を通して教えられたように思います。結果的には精神性に着目することで、勝率は格段に向上しました。

その後、私は本格的に信仰の道をたどるようになり、み言に相対するようになるのですが、これは麻雀を通して唯物的な私を神様が教育してくれたのだと、今では思っています。

今回は「私の宗教性を育んだもの」と題して、麻雀の話をさせていただきました。
長文を読んでくださり、ありがとうございました。

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